教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/12 NHK 歴史探偵「平安武士と蝦夷」

圧倒的な武力を誇った蝦夷

 今回は東北の蛮人扱いされている蝦夷について注目。圧倒的な戦闘力を誇った蝦夷の技術が後に台頭する武士に大きな影響を与えているという観点で注目する。

 平安時代、東北地域では戦乱が多かったという。その戦乱の原因となったのがアテルイと呼ばれるこの地方の蝦夷の族長である。蝦夷は狩猟採取民族であり、中央からの支配に反抗を続けていた。アテルイが率いる蝦夷の軍勢は精強であり、当時の絵巻では蝦夷の姿は角のある異形の姿として描かれている。蝦夷は殺傷能力の高い弓矢に馬を巧みに乗りこなした騎射で朝廷軍を迎え撃ったという。だから戦闘力において蝦夷一人で朝廷軍十人に匹敵すると言われたという。

アテルイの像

 アテルイは789年に、1500人の軍勢で4倍の6000人の朝廷軍を北上川の東側の山がちな地形の中に誘い込み、陣形が組めずに統率が乱れた朝廷軍を巧みに誘導して、伏兵が周囲から矢を浴びせかける包囲殲滅戦法で勝利する。朝廷軍は1000人の犠牲が出たという。アテルイは単に武勇に優れていただけでなく、知略も兼ね備えた将であったのだという。

 

 

坂上田村麻呂の登場

 アテルイに惨敗した朝廷は坂上田村麻呂を蝦夷討伐に起用する。田村麻呂は堂々たる偉丈夫だったらしいが、その圧倒的武力を持って蝦夷を討伐・・・と思ったらそうではなかったらしい。彼は宴会を開いて蝦夷をもてなし、アテルイと周辺の蝦夷の有力者との分断を図ったのだという。さらに巨大城塞である胆沢城を築き、ここに10万の大軍を置いて圧力をかけたという。これで蝦夷は内部分裂して敗北、802年にアテルイは降伏する。その後に京都に送られて斬首されたという。

征夷大将軍の坂上田村麻呂

 なお田村麻呂はアテルイを解放することを朝廷に求めていたという。田村麻呂はアテルイを活かして蝦夷支配に利用することを考えたようだが(諸葛孔明に対する孟獲みたいなものか)、まあ朝廷としては政治的にこれは妥当な判断だろう。というのは、田村麻呂はここで大きな功績を上げたのであるが、こうなると次に朝廷にとって脅威となるのは田村麻呂の存在であるからである。ここでアテルイを解放したら、蝦夷が田村麻呂に恩義を感じて彼に仕え、蝦夷を配下にした田村麻呂が東北で自立するという可能性を警戒したと推測する。まあそういう厭らしいことをいろいろと考えて工作するのが政治というものであり、当時の朝廷はこの政治のプロ軍団である。番組では朝廷が蝦夷を恐れるがばかりに過激な対応をしたというような解釈だったが、そんなに単純なものではなかろう。

 

 

関東に移住させらた蝦夷が武士の先祖と結びつく

 こうして朝廷の支配を受けることになった蝦夷は、日本各地に移住させられることになったという。彼らは俘囚と呼ばれ全国各地に強制移住させられる(蝦夷が団結することを恐れたものと思われる)。大陸への備えが必要な九州と、特に関東への移住が多く、全体の3割ぐらいは関東に移住したのだという。これは関東の治安維持が困難であったためで、蝦夷は治安警察のような役割を果たしたのだという。

 この蝦夷と結びついたのが中央で役職に就けなかった王臣子孫(天皇の子孫)だという。彼らは一旗揚げようと関東に移住して土着化して、蝦夷を配下に加えたのだという。この両者が結びつくことで蝦夷の騎射技術などが伝わり、その中から平将門などの強力な武士が現れたのだという。そして12世紀に最強の武士とも言われた源八幡太郎義家が登場する。彼は蝦夷が得意とした騎射の達人であったという。番組では八的という当時の騎射の技を再現してもらうということをしているが、正直なところこれは特に意味のない企画である。

 そして騎射の技術を磨いた義家の軍団は東北に攻め入る。東北の金が目的だったという。この頃になると東北の蝦夷も再び勢力を盛り返していて、前九年の役で蝦夷のリーダーの安倍氏を滅ぼしている。なお当時は陸奥の国司になるというのはかなりの利益を上げられることであったらしい。

 ここで登場するのが藤原清衡。彼は蝦夷の流れを汲む者であるという。清衡の父は前九年の役で蝦夷に味方し、源氏によって処刑された。そして20年後、再び蝦夷同士の戦いが発生して清衡もそれに巻き込まれる。ここで源義家は絶好の機会と捉えて朝廷に願い出て陸奥守に就任して、東北を支配下に収めようとする。ここで清衡はあえて父の敵である義家に仕えたのだという。そして金沢柵に立て籠もる蝦夷に兵糧攻めを行って開城させた。しかしここでも義家は降伏した女子供まで虐殺したという(とにかく当時の武士は残虐極まりない)。義家は都に呼び戻されるが、その後も東北を狙い続ける。清衡は源氏の介入を防ぐために中央の関白などに馬や金を送って工作をした。こうして清衡は東北の地を平和にすることに成功したのだという。

 

 

 以上、坂上田村麻呂の蝦夷討伐から、武士の台頭までをつなげた内容。蝦夷の武術がそのまま関東武士の力の元であったというのは、言われれば確かにという内容。それにしてもこうして見ていると、やっぱり東北の蝦夷って明らかに侵略された側なんだよな。琉球やら蝦夷地のアイヌなどにも通じるところがある。散々苦労して東北の平和を守った藤原氏も、最終的には源頼朝に攻め滅ぼされることになるのだから、源氏って野蛮な上に執念深い。

 なおこの時に東北は関東からの侵略に苦しめられるのであるが、結局は東北は今でも東京に収奪され続けており、つくづく東京って日本のガンだよなと感じる次第。実際に東京がなかったら今の東北はあそこまで寂れていないと感じている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・平安時代、東北では蝦夷が優れた騎射の技術などで精強を誇っており、リーダーのアテルイは4倍の朝廷軍を殲滅している。
・朝廷は蝦夷討伐のために坂上田村麻呂を起用。田村麻呂は蝦夷の有力者をもてなしてアテルイとの分断を図り、結局はアテルイは田村麻呂に降伏するが、朝廷によって斬首されている。
・その後、蝦夷は俘囚として各地に強制移住させられたが、特に関東に送られた者が多かった。そこで中央からあぶれた天皇の子孫達と結びついて武士が誕生した。
・その中でも蝦夷の騎射技術を極めて最強と言われたのが源義家。彼は東北の支配を狙って前九年の役、後三年の役で武力侵攻を行っている。
・藤原清衡は義家の配下として後三年の役に参戦。その後も源氏が東北に介入してくることを防ぐために、東北の馬や金などを中央に送って工作を続けて、何とか東北の平和を守る。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・東北が金が豊かだったのはかなり前からであり、奈良時代には既に金山が見つかって、その金が大仏に使われていたりしますから、豊かな地ではあったようです。その割には未開の僻地扱いもされるのですが。

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