今回の主人公は秀吉の正室おね。彼女の内助の功が秀吉を天下人にしたという話。
秀吉と恋愛結婚したおね
おねと秀吉が結婚したのは、おね14才、秀吉25才の時。この時代の結婚と言えば親が結婚相手を決めるのが普通だったが、この両者の結婚は恋愛結婚だったという。しかしこの二人の結婚はスムーズにはいっていない。それはおねの母である朝日が猛反対したからである。というのも、おねの実家である木下家は名字もある歴とした武家だったのに対し、この頃の秀吉は足軽の藤吉郎であり、名字さえない浪人上がりである。圧倒的に身分が下だったのである。二人が結婚できたのは、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏によると、朝日の妹の七曲がおねに助け船を出したからだという。
秀吉を天下人にしたおねの内助の功
こうしておねと結婚し、木下の姓を名乗るようになった秀吉はここからグングンと頭角を現すことになる。そして小谷城の合戦で活躍した秀吉は、北近江13万石の所領を与えられて国持ち大名となっていた。そして居城の長浜城を築く。信長に中国攻めの大将を命じられて姫路に出向いていた秀吉の留守を守っていたのは結婚14年目のおねであった。この時の秀吉の書状から、長浜の城下の差配についてはすべておねが取り仕切っていたことが分かるという。
またおねは信長に対して適宜気の利いた贈り物をするなど、主君との関係が上手くいくように取り図ってもいた。信長とおねの間はかなり親密であったのか、おねが秀吉の女関係について愚痴ったらしきことに対し、信長が「あのはげねずみにはあなた以上の妻などもらえるわけがないから、堂々としていなさい」という有名な手紙を送ったのが残っている。そして本能寺の変が起こる。長浜城も明知勢に攻められることになる。この時にもおねは側室や女性たちを連れて直ちに城を脱出、高地にある大吉寺に避難して皆を守ったのである。
また秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の合戦も、前田利家の妻であるまつと親しかったおねが、まつを通して前田利家の離脱を促したと考えられる。結局は前田利家の離脱が決定的となって、賤ヶ岳の合戦では秀吉が勝利を収める。
豊臣政権共同経営者としてのおね
秀吉は関白となるが、この時にもおねは公家に贈り物攻勢などで良好な関係を事前に築いていたという。そして関白になって秀吉が豊臣姓を名乗るようになった頃、おねは北政所と呼ばれるようになる。
天下を平定した秀吉は、大名の妻子を人質として大阪城に集める。もしこれらの人質に問題が発生したら大名の離反につながりかねないが、これに万事目を配ったのもおねであった。おねは秀吉と共に豊臣政権を運営していたのである。
また実子のいない秀吉のためにおねは一族の中などから後継者となる養子を育て始めた。しかしその状況は側室の茶々が鶴松を産んだことで一変する。茶々とおねの間にはこのことで確執があったとされているが、先ほどの小和田氏は、子どもを産んだ時点で茶々は正室に格上げされており、おねが家を守り、茶々が子どもを育てるという分業体制になっているので両者の間には確執はないと解説している・・・んだが、これは私としては「?」。おねは以前に信長に対して秀吉の女性関係に対して愚痴ったことがあるぐらいであり、実子を産んだことを楯にして強い立場を主張してくる茶々に対して、確執がないなんてことはあり得ないと考える。
状況の変化と家康の台頭
しかしこの鶴松は3才で病死してしまう。もうこれで実子を持つことは無理だろうと落胆した秀吉は、養子の秀次を後継者に選んで関白の地位を譲る。しかし淀の方(茶々)が二人目の秀頼を産んだことでまた状況が一変する。秀吉は秀頼を後継者と定め、秀次には謀反の疑いをかけて切腹させ、さらにその正室などらまですべて殺害してしまう。さらにもう一人の養子であった秀秋は小早川家へ養子として送ってしまう。自らが育てた養子たちへのこの仕打ちに対しておねがどう考えていたかを示す資料は残っていない。
それから間もなく秀吉が亡くなる。秀吉の死後は前田利家が秀頼を補佐し、徳川家康が伏見で政務を取り仕切るようになるが、その前田利家も間もなくなくなる。そして石田三成と徳川家康が対立して三成は佐和山に蟄居することになる。この後、大阪城に家康を招き入れたのはおねであるという。おねとしては政務を取り仕切るのなら大阪城で行うべきとの考えがあったのだろうとのこと。
関ヶ原の合戦と豊臣家滅亡、その時おねは
そして関ヶ原の合戦が勃発する。この際、西軍として参戦した小早川秀秋には黒田長政や浅野幸長から「北政所を手助けするために東軍についた」との書状が送られているが、これは両者が勝手におねをダシにしただけで、おねは実際には徳川方についたわけではないというのが小和田氏の解釈。淀殿とおねとの間に確執はなかったと考えているのだから、そういう結論になるだろう。ただこれについて私は確執がないはずがないという考えなので、どれだけ積極的かは不明だがおねは実質的に家康方についていたのではと考えている。おねは元々主家であった織田家が豊臣家の家臣として生き残っているのを見ているはずで、豊臣家も同様に実力者となった家康の元で家臣としてでも良いから存続するということを考えていたのではないかと思っている。なおこの当時から秀頼は秀吉の子ではないという噂はあり(実際にそれは真実だと思う)、秀頼が成長するにつれていよいよ秀吉と似ていないことがハッキリするにつれてそれは確定していたと思う。となるとおねとしては、豊臣家をつぶすことには抵抗はあるが、淀殿と秀頼の立場についてはそう重視はしていなかったのではないかとも推測できる。加藤清正や福島正則というまさに子飼いの将が軒並み家康に付いたのは、単に三成に対する敵対心だけではあまりに弱い。
しかし天下をほぼ手中に収めた家康は豊臣家をあくまで滅ぼしにかかった。この時、おねは大阪城に向かおうとして徳川軍に阻まれたという。恐らく彼女は淀君に家康に降るように説得するつもりだったのだろうと考えられる。ただプライドの高い淀君にそれは不可能だったろう。結局、二度の戦いの後に大阪城は落城して淀君と秀頼は自害する。おねはその後も秀吉の御霊を弔って生涯を送ったようである。
小和田氏はおねは家康についたわけではなく、中立のような立場だったという考えのようであるが、私は消極的な形ではあるが家康側に付いていたと考えている。おねの計算違いは家康があくまで豊臣家をつぶすことに固執したことと、淀君が最後までひざを屈しなかったことだろう。この辺りは家康の陰険さと淀君のプライドの高さを読み違えたというべきだろうか。おねは根が善良な人であると思われるので、ここまでドロドロした人の悪意というものは読めなかったのだろう。まあだから人のトップに立つ者は清濁併せのむ度量が必要などとも言われるのだが。
忙しい方のための今回の要点
・おねは14才の時に25才の秀吉と恋愛結婚している。当時は秀吉の身分がおねの実家よりも低かったことからおねの母が猛反対したが、結果としておねはそれを押し切っている。
・おねと結婚後、メキメキ頭角を現して国持ち大名までになった秀吉に対し、おねは居城の長浜城を取り仕切ったり、信長との関係を取り持ったりなどの働きをしている。
・秀吉が関白となった後は、人質の大名の妻子に目を配ったり、後継者となる養子をそだてるなど豊臣政権の運営のために働いている。
・側室の茶々が秀吉の子を産んだことで状況が変化したが、茶々とおねは一種の分業体制であり、両者に確執はなかったと番組はしている(これに対しては私は異論あり)。
・関ヶ原の合戦の際、小早川秀秋はおねのために寝返ったとも言われているが、実際はおねは家康側にはついていなかったと番組はしている(これについても私は異論あり)。
・大坂の陣の直前、おねは淀君の説得のために大阪城に向かおうとしたが、徳川勢によってそれを阻まれた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・豊臣政権において、最近になってその存在の重要性が認識されてきたのが、正室のおねと弟の秀長です。おねは豊臣政権の実質的な共同経営者であり、秀長は優秀な補佐役であったと言われています。実際に豊臣政権が急速に傾いたのは、秀長が亡くなり、秀吉が秀頼べったりになってからですからね。
・おねとの間に実子がいたら豊臣家のその後もまた違っていたでしょうね。秀頼は秀吉の子ではないと言われてますし(これはほぼ確定だと思います)、秀吉は種なしだったのではという説もあります。真偽のほどは不明ですけど。
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