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9/11 NHK 歴史秘話ヒストリア「ここがスゴイ!承久の乱」

 一般的には源頼朝の鎌倉幕府設立から武士の時代が始まったというように考えられることが多いが、最近の考え方はそうではなく、その後の承久の乱によって初めて武士の時代が始まったという考え方をするそうな。つまりは最初の鎌倉幕府はあくまで東国のローカル政権に過ぎず、幕府の権威が日本全国に及ぶようになったのは承久の乱以降ということであろう。

北条義時と父・時政の確執

 さてこの乱は鎌倉方と朝廷方による戦いであるが、一方の主人公は鎌倉幕府の執権である北条義時、対するは朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇である。ただこの北条義時、権力を掌握するまでにはなかなか数奇な運命を辿っているらしい。

 北条義時は実は長い間北条姓を名乗らず、文献などにも江間という姓が記載されているという。これには義時の複雑な生まれが関係しているとか。義時は鎌倉幕府の執権である北条時政の息子であり、政子は実の姉だという。しかし時政には後妻の牧の方との間にも娘がおり、牧の方はその娘を頼朝の妻にしようとしていたという。しかし頼朝は彼女を嫌って政子を妻にしてしまう。それに怒った牧の方は政子を恨み、その恨みは実の弟である義時にも向かった。そういうわけで時政は義時に家督を継がせずに他の家に出してしまったのではないかとのこと。

 だが義時は頼朝に重用されて側近として取り立てられる。しかしそれでも義時が北条家に戻されることはなく、20年近く江間姓を名乗ることになったという。

 

時政の暗躍

 そして1199年、頼朝が突然に死去する。すると時政が権力を狙って怪しい動きを始める。彼は競争相手となる有力武士を次々と排除し、ついには2代将軍の頼家まで殺害する。これらを時政の指示で実行したのは義時だった。しかし時政が畠山重忠に謀反の疑いがあるとして義時に討伐を命じた時、義時は「重忠は忠義の士であって謀反などあり得ない」と強硬に討伐に反対する。しかし結果的には時政の命で重忠を討たざるをえなくなるのであるが、その時に「重忠に謀反の意志はなく陥れられたものであり、重忠の首を涙を禁じ得なかった」と訴える。結局はこの義時の行動が義時の評価を上げ、一方で時政は悪党として評価を落とすことになったという。

義時ついに立つ

 そして1205年、ついに義時が動く。義時は時政が3代将軍実朝を殺害しようとしているという噂があるとして、時政の館から実朝を救い出した自らの館に連れてくる。そして御家人達は続々と義時の元に駆けつける。完全に人望を失っていることを痛感した時政はその日のうちに出家し、北条家の家督は義時のものとなった

 将軍実朝と言えば、和歌や蹴鞠に興味があって政治には興味のない柔弱な将軍というイメージがあるが、実際には朝廷とパイプをつなぎながら積極的に政治を行っていたという。そして後継者たる男子がいない実朝は天皇家から次期将軍を迎えようと考える。これは幕府の権威を高める効果も期待できた。一方の後鳥羽上皇は幕府に対する影響力を高められるとの目論見で親王を送ることを約束する。

 

朝廷と幕府のすれ違い

 しかし事態は実朝の暗殺で急変する。義時は急遽親王を送ってくれるように後鳥羽上皇に依頼するが、後鳥羽上皇はそれを拒否する(そんな危険なところに息子はやれないということ)。これから鎌倉と朝廷のすれ違いが始まる。

 次に後鳥羽上皇は摂津などの地頭を停止するように要求してくる。これは幕府が任命した御家人を否定することで、幕府としては簡単に飲める話ではなかった。義時は対応を数日に渡って会議した結果、これを拒否する。これは後鳥羽上皇の怒りを呼ぶことになる。

 さらには京都で反乱が起こり、その煽りで大内裏が炎上するという事件が発生する。これで後鳥羽上皇は完全にぶち切れる。後鳥羽上皇は義時追討の院宣(上皇が出す命令書)を出し、全国の武士に反逆者義時の討伐を命じる。義時はとうとう朝敵にされてしまったのだ。

朝廷との戦いを決意

 しかし鎌倉の武士達は政子が頼朝の恩などを訴えたこともあり、朝敵になった義時の元にむしろ結集する。また義時は褒賞の大小で動く武士達の感情をよく理解していた。彼は領地などの褒賞を約束して武士達を味方につけたのである。義時の息子の泰時が率いる鎌倉方の武士達は三手に別れて京都に攻め上る。

 鎌倉が挙兵したことを聞いて驚いた後鳥羽上皇は直ちに西国の武士を招集するが、あまりにも対応が遅かった上、褒賞がハッキリしていなかったことから西国武士の動きは鈍かった。後鳥羽上皇は院宣の効果を過信しすぎていたのである。鎌倉の兵と朝廷方の兵は美濃で激突するが、鎌倉方の優勢となる。

 一方の義時も不安に押しつぶされそうになっていたという。やはり朝敵となって天皇家に弓を引くのは非常なプレッシャーだったという。しかし鎌倉方大勝利の方が伝わり、彼は肩をなで下ろすことになる。

 

そして幕府が全国を掌握

 戦後、後鳥羽上皇の広大な領地は没収され、朝廷方はその財政基盤を失うこととなる。またこれ以降、天皇の即位などには幕府の意向が反映されるようになる。また朝廷方についた武士達の領土は鎌倉方の武士に配分されることになり、鎌倉の御家人達が西国の領土に赴任することになり、幕府の権威が全国に及ぶことになる。これでようやく鎌倉幕府は全国政権となったのである。これを見届けた義時はその3年後にこの世を去る。


 以上、承久の乱の顛末であるが、後鳥羽上皇は能力も比較的高いアグレッシブな人物であったらしいが、如何せん朝廷の中だけしか知らなかったので武士の心を読めなかったのだろう。天皇家の人間はこうなりがちで、後の後醍醐天皇も結局は武士の心をつかみ損ねて失敗している。

 これに対する北条義時は人望で父親を排除したように描かれているが、これについては「だけど実行犯はお前じゃん」とツッコミを入れたくなるところ。最終的には実力で父親を排除して家を乗っ取ったわけだし、これは彼の心の奥底にはかなりドロドロと渦巻くものがあっただろうと思われる。もっともこんな時代、本当に品行方正で清く正しい人物なんてすぐに謀略で始末されて終わりだろうが。

 今までの承久の乱の解釈と言えば、幕府に実権を奪われて落ち目の朝廷が、頼朝の死のドタバタにつけ込んで起死回生を狙って挙兵したというイメージで捉えられていました。しかし今回のを見るともっと対等に近い立場であり、鎌倉方も実はかなりヤバかったんだというのが伝わってきます。後鳥羽上皇も決して破れかぶれだったわけではないということであり、その辺りはなかなかに面白かったです。

 


忙しい方のための今回の要点

・承久の乱まで鎌倉幕府が支配していたの主に東国であり、西国は朝廷の意向が強かった。
・父時政から北条家の家督を奪った義時は、将軍実朝と共に後鳥羽上皇の親王を次期の将軍として迎えようとするが、実朝の暗殺でそれが頓挫する。
・それ以降、幕府と朝廷の意向がズレ始め、京都での反乱で大内裏が炎上した事件で、とうとう後鳥羽上皇は北条義時討伐の院宣を発する。
・しかし鎌倉武士は義時が領土などの褒賞を明確に示したことなどもあって鎌倉方に付き、対応が遅れた朝廷方の武士を破って勝利を収める。
・承久の乱後、幕府の支配や朝廷や西国などにまで及ぶことになり、こうして武家による支配が確立する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・最近はこの番組は再現ドラマに力を入れてますね。おかげで義時も後鳥羽上皇も、肖像画よりもかなりイケメンになってしまっている(笑)。まあ合戦シーンなんかはさすがに大河の流用をしたりしますが。
・やっぱり生まれながらに人の上に立っている人間は、どうしても回りが自分の言うことを聞くのを当たり前に考えてしまうんですよね。結局はそれが後鳥羽上皇の最大の敗因。だから二代目政治家とか二代目社長とかはボンクラ揃いになっちまうんです。