教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/9 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「いくらかかった?忠臣蔵」

 毎年この時期になると必ず登場する忠臣蔵。赤穂浪士が吉良邸に討ち入って、主君の敵を討ったという事件である。しかしこの事件、単に浪士が騒動を起こしたというだけではない。やはりこれだけのメンツが結束して軍事行動を起こすとなるとそれなりの費用が掛かっている。今回はそのお金の話。

忠臣蔵の決算書「預置候金銀請払帳」

 忠臣蔵にまつわる金銭関係情報を伝える資料が「預置候金銀請払帳」。吉良邸討ち入りまでの経費を記した決算書である。経費総額は実に8000万円以上かかっていることがこれから分かるという。

 松の廊下の事件が起こって浅野内匠頭の切腹になり、赤穂藩は取り潰しに。この後は筆頭家老の大石内蔵助は様々な財務処理に追われるわけだが・・・ここでいきなり解説に「忠臣蔵」の決算書の著者の山本博文氏が登場で、やっぱり今回の内容は映画「決算!忠臣蔵」のプロモだったことが判明する次第。まあ予想はついてましたが。

藩札の清算、藩士の退職金、大石にのしかかる多量の事務処理

 内蔵助はまず藩札の清算に乗り出す。藩札は藩が発行する紙幣であるので、藩が取り潰しとなると紙切れになってしまう。当然取り付け騒ぎが起こるわけなのでそれの対処が必要である。しかし赤穂藩が発行した藩札は銀900貫目(現在の価値で約18億円)と莫大なもので藩の年間予算に匹敵する額であった。

 赤穂藩には替わり銀という藩札のための準備金の銀700貫目が既に準備されていたので、内蔵助は残りの銀200貫目を特産の塩にかける税金の運上銀で賄おうと考えていたのだが、藩が大阪の承認に借金をした際に運上銀を担保にしていたために、これは差し押さえられてしまう。やむなく内蔵助は藩札は6分替えにすることを決断する。藩札を持つ商人たちも、踏み倒されるよりはマシとこの条件を飲む。

 次に必要となったのが300人の藩士たちへの最後の給料。これが今の金で16億5千万円、さらに退職金に当たる割賦金が7億1千万円。本来割賦金は石高に応じて支払われるのだが、これから浪人になる彼らの生活の困窮度を考えて、下級の藩士に比較的手厚く支給したという。内蔵助が財務処理を終えたのは討ち入りの1年6か月前だという。

 

内蔵助は討ち入りのつもりはなかった?

 この時に大石内蔵助の手元に残ったのは藩財政処理後の残り391両と、浅野内匠頭の正室である瑤泉院から預かった化粧料(妻が結婚時に持参する個人的財産)の一部の300両を併せて691両、8292万円だったという。これが討ち入りの軍資金ということになる。

 まず最初に内蔵助は内匠頭の供養のために寺院への寄付などに127両3分(1533万円)と多額を費やしている。この時点では内蔵助は内匠頭の弟である浅野大学を立てての御家復興を第一に考えていたので、討ち入りのことは念頭にないと推測されるという。実際にそのための根回しに結構な費用を使っている(つまりは贈賄なのだが)。これに65両1分(783万円)を使用しているという。討ち入り云々の前に手元の資金は498両(5976万円)までに減ってしまっている

 また上方と江戸の間の旅費にも多額を使用しているという。これは江戸の藩士たちがすぐにでも討ち入りを実行しようと暴走寸前であり、それを宥めるために使いを送ったらしい。しかし送った使いがことごとく江戸の藩士に丸め込まれてしまう状態で内蔵助は藩士の暴走を抑えるのにかなり苦労したようである。内蔵助は直接「討ち入りのための時期を選ぶように」と手紙を送ったものの、結局は自らが江戸に行かざるを得なくなったという。これもまた費用が掛かっている。これで残金は419両(5028万円)にまで減ってしまう。

 さらに内蔵助は上方から江戸に来た者のアジトとするために屋敷を70両(840万円)で調達したのだが、不運なことに近くで起こった火事の煽りで幕府に差し押さえられてしまって使用不能になってしまう。これで残金360両(4320万円)。この時点で討ち入りまで後1年である。

 

藩士の困窮、討ち入りへのプレッシャー

 また困窮する藩士たちのための支援にもかなりの額を割いている。1年も経つと中級藩士たちでも手持ちの金を使い果たして困窮する者が出てきていた。内蔵助はその都度援助をしていたようである。これらの金が132両1分(1587万円)で、残金は227両3分(2733万円)になってしまう。

 藩士の生活の切迫と共に江戸組の突き上げも厳しくなる。彼らは大石の元を訪れて討ち入りの確約を迫る。この会談の後で内蔵助は妻と離縁しているとのこと。またこの頃から内蔵助は祇園で遊興にふけるようになったというが、これを見ていると決意を固めて周囲の目を欺いていたなんて格好いいものではなく、やけくそになっていたのではという気がしてくる。なおこれらの費用は内蔵助の私財から払われている(当然と言えば当然であるが)。

 

いよいよ討ち入り決行となるが

 しかし浅野家再興の目は完全につぶれる。この期に及んで大石も討ち入りを決意せざるを得なくなる。この後、各地の藩士に使いを送ったりなどをしている。さらには飛脚代なんてものも記録に残っているという。この時点で内蔵助は討ち入りの意志の堅い者だけを選抜して上京の費用を与えている。この時点で内蔵助の手元には60両(720万円)しか残っていない。

 討ち入り一か月前。上京して隠れ家に到着した内蔵助は、藩士たちの食事代や討ち入りのための武器の調達などをするが、結果として残金は-7両1分(87万円の赤字)になってしまったという。どうやら赤字分は内蔵助が私財から補填したらしい。で、結局完全に資金が尽きた状態で討ち入りは実行されたことになる。

 これらの詳細を記した「預置候金銀請払帳」は討ち入りの夜に内蔵助が瑤泉院の元に届けさせたという。こういうキッチリした会計処理を見ていても、大石内蔵助という人物はつくづく官僚向きのタイプの人間だったのだというのが感じられる。やっぱり討ち入りは不本意だったろうな・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・赤穂藩取り潰しが決まって、藩札の清算処理や藩士たちへの給料や退職金を分売したのちに大石内蔵助の元に残ったのは8000万円ほどの額だった。
・内蔵助はこれらの資金を浅野内匠頭の供養や御家再興のための根回しに使用しており、この時点では討ち入りを考えていなかったことがうかがえる。
・また暴発寸前の江戸の藩士達を抑えるための使者を送る費用なども使用しているが、結局は使者はみな江戸の藩士と意気投合してしまい、内蔵助が自ら上京して彼らを宥める必要に迫られる。
・しかし御家再興の望みは完全に断たれたことで、内蔵助も討ち入りを決意する。
・だがこの時点で残り資金は少なく、藩士の支援や武器の調達などを行ったら結局は赤字になってしまって内蔵助が私財で補填した。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・お金の観点から忠臣蔵を見るという内容ですが、そもそもこの時代の武士は既に合戦などなくなって久しく、明らかに役人化してましたから、本来は金勘定のほうが本業だったりします。
・立場上担がれざるをえなった内蔵助としては、本音は迷惑至極だったでしょうね。実際に内蔵助だけなら生活のすべはいくらでもあったわけですから。本来はわざわざ彼が命を捨てる必要はないのですが、立場上そういうわけにもいかなかったんでしょう。この辺りはいかにも日本人。
・おかげで大石内蔵助は後世まで名を残しましたがね。ただ本人の本音は祇園でどんちゃん遊んでたかったのではなんて思います(笑)。「赤穂藩、解散!」で終わらしとくというわけにはいかなかったんですかね。

 

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