教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/18 BSプレミアム 英雄たちの選択「"幕末"をつくった天皇~200年前の生前退位~」

 天皇の生前退位が行われたが、それに伴って話題となったのが江戸時代にやはり生前退位を行った光格天皇だという。彼は天皇の権威を高めるために幕府と渡り合い、彼の行動があったから明治維新での天皇中心の国家建設という形につながったと言われている。

古式を復活して、天皇の権威を高めようとした光格天皇

 そもそも彼は本来は天皇位は回ってこない傍系の人物だったという。しかし直系の天皇が若くして没したことで、天皇家の断絶の危機が訪れ、それを回避するために彼に天皇位が9才で回ってきたのである。彼はその出自もあって、生涯天皇のあるべき姿を追い求めたという(そもそもが本来は側近の貴族よりも立場が下の出自なので、天皇の権威を示す必要があったらしい)。彼は古来よりの朝廷の儀式の復興に力を入れ、新嘗祭などを本来の形に戻したのが彼らしい。

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光格天皇 穏やかではあるが偏屈そうな印象も受ける

 

幕府との交渉で天皇の力を高める

 やがて世の中は天明の大飢饉で不穏な状況になる。地方では餓死者が出、江戸などでは米の高騰に苦しむ人々が打ち壊しなどを行って社会が不穏になってくる。この時に京都で起こったのが御所千度参りの騒動。飢饉に対して全く無策の幕府を見限った人々が、御所にお参りに押しかけて、天皇に救いを求め始めたのである。1日5万人にも上る人々が訪れたという。この事態に17才の光格天皇は幕府に対して救済米を求める行動を起こす。朝廷が幕府の政治に対して口を出すのは前代未聞であり、幕閣内では議論が紛糾したらしいが、結局幕府は1ヶ月後に京都市中に1500石のお救い米を支給する。天皇が幕府を動かしたということであり、これで天皇の権威が増すことになる。

 しかし1788年、天明の大火で京都の町は焼け落ち、御所も丸焼けの事態になる。18才の光格天皇は御所の再建という難題に挑むこととなった。この際に光格天皇は平安以来の本来の御所の形に再建するということを目指す。しかしそれは莫大な費用のかかるものである。費用を求めて幕府と交渉するが、そこに立ちはだかったのが質素倹約の松平定信である。交渉は難航を極めたようだが、光格天皇は自分が普段居住する寝殿は簡素で良いからと儀式用の紫宸殿などは格式高い平安時代の様式で建設され、これは今日までも引き継がれている。定信は光格天皇の強い要求に屈した形だが、定信は「以後、新たな要求については固くお断り申し上げるべし」と自叙伝の中に記しているとのことで、幕府と朝廷の間に火種が残ることとなった。

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今日も残る紫宸殿はこの時に復元されたもの

 

尊号事件では幕府に敗北

 その火種はすぐに火を吹く。光格天皇が父である典仁親王に太上天皇の尊号を与えようとしたのである。これは典仁親王は天皇になったことがなく、地位的には太政大臣などの側近よりも低い立場にあったからである。しかし禁中並公家諸法度の定めなどから天皇が独断で実行できる事ではない。そこで光格天皇は貴族の大部分の同意を得て、幕府に承認をするように使者を送る。しかしこれに対して定信が真っ向から反対する。光格天皇側はこれに対してもう心は定めたという類いの文書を送るが、これに対して定信は「皇位はそのように軽々しいものではない」と反論、光格天皇の側近の3名の公卿を江戸に呼び出して審問した上で逼塞、閉門などの厳しい処罰を下す。この幕府側の強攻策に光格天皇も引き下がらざるを得なくなる

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光格天皇の父の典仁親王

 

生前譲位の儀式で権威を高める

 47才になった光格天皇は譲位して上皇となるが、その際にはかなり派手な儀式を行っており、その様が絵巻として残っている。これは明らかに天皇の権威を示すためのデモンストレーションであるという。既に定信がいなくなって20年、幕府も朝廷に接近してその権威を利用することを考えるようになる。時の将軍家斉は自らの官位昇進を願い出て、その代わりに永らく絶えていた修学院離宮への御幸を復活させた。これらの行為は天皇の権威を高めることになり、この頃になると幕府も天皇の権威に寄りかかって自らの正当性を保つようになり始めていたのだという。1840年に光格天皇は70歳で亡くなるが、既に幕末までは十数年となっていた。

 

 要するに光格天皇による一連の天皇の権威強化策があったからこそ、明治維新で天皇を担ぎ上げて新政権をという体制になったということらしい。幕府は自らの権力を正当化するのに天皇を利用したのであるが、それが幕末になると薩長側に乗っ取られてしまい。結局は錦の御旗の前に敗北することになるのだから、確かにここで天皇の権威が高まったということは大きい。それまでは天皇は半分忘れられかけた存在になりかかっていたのだが、そのままだと錦の御旗を掲げたところで「それが何か?」で終わってしまった可能性もある。そういう意味で改めて今日的視点から見ると、この光格天皇の行動が地ならしの意味で重要性が高いということか。

 

忙しい方のための今回の要点

・光格天皇は傍系から天皇に即位しており、その出自の件もあって天皇の権威を高めるのに奔走することになる。
・彼は天明の飢饉で幕府に救済米を出すように求めたり、火災で焼失した御所を平安時代の様式で再建することを認めさせるなど幕府との交渉で天皇の影響力を高めていく。
・しかし自分の父に太上天皇の尊号を送ろうとした件では、松平定信の強硬な反対に合い、断念せざるを得なくなる。
・しかし47才の時、譲位して上皇となる儀式を古式で派手に行って、天皇の権威を世間に示す。この頃になると幕府も天皇の権威を利用しようと朝廷に接近を図り、光格天皇はさらに天皇の権威を高めることに成功する。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・地味に明治維新への地ならしを行った人と言うことでしょうか。ただその割には一般にはあまり知られていない人です。恥ずかしながら私も今回初めてこの人の名前を聞きました。明治維新にはあまり興味がないというか、あまり好きでないので(笑)。明治維新はフランス革命なんかと違って民衆の動きはありませんし、所詮は上層部同士での権力争いという感じがして、何かショボく感じるんですよね(笑)。

 

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