信康の切腹は信長の命ではない?
家康は嫡男であった信康を自刃させている。それについては信長の命によるとされていたのであるが、実はそうではなくて家康自身の意志によるものだというのが今回の話。
今まで言われていたのは、信康と結婚していた信長の娘の徳姫が、信康に対する不満と築山殿が武田勝頼に内通しているという話を信長に書状で訴え、それを聞いた信長が激怒する。そして家康の側近である酒井忠次を呼び寄せて問い詰めるものの、酒井は書状の中身を否定できず、信長は家康に信康を切腹させるように命じる。それを受けて家康は苦渋の決断で信康に切腹を命じた・・・とされていた。以上が「三河物語」に記されている内容なのだが、これがかなり疑問なのだとか。例えば江戸時代初期に成立した「当代記」には信長は「家康の思い通りにせよ」と伝えたとあり、切腹は命じていないという。
信康の人となりは
信康は家康が今川家の人質時代、義元の姪に当たる瀬名姫(後の築山殿)との間に生まれた子供である。しかし桶狭間の決戦後、家康は今川家からの離反を決意して岡崎城を奪還する。しかし瀬名姫と信康は駿府に置き去りにされており、いつ裏切り者の身内として殺されるか分からない状況に置かれたという。人質交換で二人が岡崎に移ることが出来たのは2年後、しかしこの時に信康は岡崎城に迎え入れられたが、今川家の身内である瀬名姫は城に入らずに尼寺で暮らすように命じられ、その尼寺のあった場所から「築山殿」と呼ばれることになったという。だから小和田氏によると、瀬名姫は家康に対する恨み節ぐらいは言っていただろうし、それを聞いた信康にも影響を与えたのではと分析している。信康は9歳で信長の娘である徳姫と政略結婚する。そして元服の際には信長から一字をもらって信康と名乗ることになる。家康が浜松城に根拠を移すと、12歳の信康が岡崎城を守ることになり、信康の回りには専属の家臣団を置いた。
信康は15歳で武田との戦いに初陣し武功を上げる。ただ性格には難があったとの話もある。激高しやすく些細なことで領民を手討ちにしたとか言われている。また鷹狩りの時に僧侶に出会い、当時は僧侶に会うと獲物が少なくなるという迷信があったことから、信康は激怒して僧侶に縄をかけて馬で引きずり殺してしまったというエピソードがあるとか。もっともこれらはどうも後世の捏造のような気がする。豊臣秀次の「殺生関白」のエピソードと同様で、切腹させられたという事実があるから、後からその正当化のために「殺されて当然」という理由を捏造されたのではと私は推測する。なお小和田氏は勇猛果敢な若者だが、いささか無慈悲な面もあったのかもとしている。しかし当時は戦国時代であるから、ある意味でこのぐらいが普通だったのではという気もしないでもない。
ただ何にせよ、築山殿が武田と内通していて信康がそれに巻き込まれて切腹させられたというのはおよそ信じがたいという(全く同感)。やはりそこには家康が隠したかったタブーが存在するのではないかとしている。
武田への対応で家康家臣団が分裂
信玄の死後、武田に対して攻勢に出て長篠城を奪取した家康であるが、その後に武田勝頼の反攻によって高天神城が落城、さらに武田軍は三河にまで進行して家康は防戦一方に追い込まれる。こんな中で徳川陣営内で意見の対立が生じる。家康を中心とする浜松衆が武田との徹底抗戦を主張したのに対し、信康を中心とする岡崎衆は武田との関係を見直すことを主張したという。先の三方ヶ原の戦いでは信長は3000の援軍しか送る余裕がなく、その結果として武田軍に大敗しているのだから、勝頼に押されまくっている現状を考えると、織田を見限って武田につくべきという意見が出ても当然だったかもしれない。しかし家康は織田との同盟を破棄するつもりは毛頭なく、そんな家康に対して信康が苛立ちを感じていても不思議ではない。
そんな中で信康の家臣の大岡弥四郎が武田に内通して、その軍勢を岡崎城に引き入れようとしたという事件が発生する。事件は事前に発覚して事なきを得たが、家康は激怒して関与した者達を処刑する。織田・徳川連合軍が武田軍を鉄砲で壊滅させる設楽が原の合戦はその1ヶ月後だという。家康は自分の選択の正しさを確信したと思われるが、これが逆に浜松衆と岡崎衆の軋轢を浮かび上がらせることになったという。武田との最前線である浜松衆は武功を上げる機会に恵まれているのに対し、後方支援に当たる岡崎衆は武功に恵まれず、それが不満につながったのだという。本来は信康はこれらの不満を鎮めるべき立場だったのだが、血気盛んな信康は自身と岡崎衆こそ最前線に立つべしとの考えを持っていたのではないかとされる。
そして情勢の変化が。上杉謙信没後の家督争いに関連して、武田勝頼と北条との対立が激化する。その結果として武田勝頼は岡崎衆に対する調略を強化する。この時にどうも信康が勝頼と接近したようであるという。この動きが徳姫に知られ、信長に漏れたのではないかとしている。
家康最後の説得も叶わず
この危機的事態に対し、家康が自ら先手を打って信長に信康を処罰する意向を伝えたのでないかと小和田氏は見ている。そして酒井を通じてその意を伝え、それに対する信長の返答が「家康の思い通りに」だったのではというのが彼の推理。
家康とて最初から信康を切腹させることを決めていたわけではなく、最後の説得を試みたものの直情径行の信康はそれを聞かず、信康を処分せざるを得なくなったのではとしている。その後、信康はあちこちの城を転々とさせられているのだが、小和田氏の推理は「これは家康の時間稼ぎで、この間に信康の家臣が救出でもしてくれないかと考えていたのだが、上手くいかなかった」と見ているが、私は逆に家臣による奪還を恐れて所在を転々と変更したのではと感じている。もし信康が家臣に奪還されれば、後は家康に完全に反旗を翻すしかない(信康の性格から見て、そのままどこかで隠棲はしないだろう)わけで、家康がそんなことを許すとは思えない。そして信康はこの後に切腹する。
なお切腹させなくても廃嫡や蟄居という手もあったにもかかわらず切腹まで命じた理由として、既に秀忠が生まれていて代わりがいたこと、浜松衆の意向に家康が従ったなどが考えられるが、家康の性格そのものが原因との分析をしている。一般に剛胆な策略家と思われている家康(私自身は家康にそんなイメージは微塵もないですが)だが、実は悲観的な小心者であった(これこそが私の家康のイメージそのもの)のではと番組は分析しており、その結果として後の禍根を断つ手段に出たとしている。なおこれは私の考えるところそのままで、また信康を助けていたら上でも言ったように、彼の性格なら絶対に叛逆をしていただろうと見る。
以上、家康と信康の対立について。要は家康が冷酷にも実の息子を切り捨てたとなっては神君家康としては都合が悪いので、信長の命で泣く泣く信康を切腹させたということにしたのだろうと思われる。まあ歴史なんて後世に都合の良いように書き換えるので、この辺りの結論が妥当なところであろう。実際に武田家の例を見てもよく分かるように、この時代には父の最大のライバルが息子というのはごく普通にあったことなので、ボヤボヤしていると息子に後からやられるということはあり得たので、小心者ゆえに非常に用心深かった家康がそこに気を使わなかったはずもないということ。ちなみにそんな小心者家康の息子にしては信康はやけに直情径行に見えるが、本来の家康は「人質生活を続けたその育ちゆえに非常に我慢強いが、実際には短気でキレやすい性格」と言われており、三方原の時には岡崎城を無視して通過した武田軍にぶち切れて出陣した挙げ句に大敗している。つまり信康は「苦労によって鍛えられなかった家康」だった可能性があるわけである。まあ苦労は人間を育てるということである。そういう意味では信康はまだ若すぎたわけである(20歳そこそこの奴にこの時代での生き方を考えろと言うのは確かに酷だ)。
忙しい方のための今回の要点
・家康の嫡男信康の切腹は、信長から強要されたとされているが、実は家康の意志によるものであった可能性が高い。
・家康の今川からの離反後、築山殿と信康は人質交換で奪還され、家康が浜松城に拠点を移した後は、信康は直属の家臣と共に岡崎城を守ることになる。
・しかし武田との戦いの中で、家康周辺の浜松衆と、信康を中心とする岡崎衆の対立が深まっていく。
・信康は織田と同盟を続けるよりも武田家と組むべきとの考えがあり、御館の乱後に勝頼の調略により武田と接近する。
・しかしそのことが信長に知られることとなり、家康は先手を打って信康の処罰を信長に伝えた。
・家康は信康の説得を試みたが失敗、結局は切腹させることになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ対立がなかったら、戦国武将としては秀忠よりも信康の方が優秀だったでしょう。ただし徳川幕府の二代目将軍としてどうでしょうか。信康が二代目将軍になっていたら、鎖国して国内を固めるよりも、対外戦争に討って出ていた可能性もあるような気が。
・私的には信康と秀忠の気質は、孫策と孫権みたいなものだったのではというイメージがあります。彼らとの根本的違いは、孫堅が若死にせずに長生きしたこと。まあ家康と孫堅では気質が違いすぎますが。
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