教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/1 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「日本存亡の危機!元寇の真実」

 鎌倉時代に日本が迎えた危機といえば蒙古襲来。いわゆる元寇である。この時は暴風雨(俗に言う神風)のおかげで元軍を退けることが出来たといわれているが、実際のところはどうだったのか。

 

蒙古の襲来と対抗した鎌倉武士

 1274年の今の暦だと11月頃に蒙古の大船団が博多に襲来した。これらの船団は先に対馬、壱岐を襲ってから博多湾に侵入、上陸して博多に進行してくる。これに備える幕府軍は3千しかおらず、3万のモンゴル軍の1/10の兵力に過ぎなかった。本陣は筥崎宮に置かれ大将は有力御家人の武藤景資だった。ここで一番駆けの功績を得るべく動いたのが肥後の御家人の竹崎季長だという。彼は武藤に一番駆けを願い出て、その功績を鎌倉に報告するように頼んだという。彼がこのような無謀な申し出をしたのは、彼は所領争いの裁判に負けて没落していたので、ここで巻き返しを狙っていたのだという。

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蒙古襲来絵詞 右で大苦戦しているのが竹崎季長

 わずか5騎で特攻した季長は矢の雨を浴びて絶体絶命の危機に陥るが、季長の後に陣を出た白石通泰の100人ほどの軍勢に救われる。一方筥崎宮の本陣もモンゴル軍の火薬を使った兵器や集団戦法で翻弄されて大苦戦していた。モンゴル軍は住民を虐殺し、町を焼き払うが日本側はなすすべもなかった。

 

なぜモンゴル軍は撤退したか

 しかし翌日、モンゴル軍が消え去ったのである。これが嵐によって撤退したと言われているのだが、この日は今だと11月26日頃で台風のシーズンからは外れている。前線の影響を受けた爆弾低気圧による暴風雨は可能性があるが、この時の京都の公家の日記によると、この日は晴れで霜が降りたとの記録があり、高気圧が上空にあったと考えられるという。すると爆弾低気圧が生成する可能性はまずない。と言うわけで、この時には嵐は起こっていないと考えるのが妥当だという。ではモンゴル軍がなぜ撤退したかだが、冬が目前に迫っており、冬になると北西の風が吹くために帰国が向かい風となり、当時の船では帰国が困難になることから、その前に撤退したのだと推測されるという。

 

恩賞を鎌倉と直談判した竹崎季長

 こうして日本は国を守ったのだが、一番駆けの功績を上げた竹崎季長は恩賞をもらっていなかった。幕府自身がそもそも侵略軍を撃退しただけなので、恩賞に与えられる土地などを得ていなかったからである。しびれを切らした季長は自ら鎌倉に出向いて恩賞を要求することにするが、なかなか相手にされなかったという。ようやく恩沢奉行の安達泰盛が会ってくれることになり、季長は懸命に自らの働きをアピールし、武藤景資にも確認してくれるように訴えたという。その結果ようやく季長は肥後国海東郷の地頭に任ぜられたという。季長は事の次第と自らの働きを蒙古襲来絵詞として作成させ、実はこれが今日の我々が教科書でみる「蒙古襲来の風景」である。なおこれには武藤景資と安達泰盛という季長にとって恩人と言える二人が描かれているが、彼らはその後に権力争いでこの世を去ったとのことで、季長の恩人への感謝の気持ちが含まれているのではとのこと。ということはここに描かれている季長の活躍は、かなり「盛ってある」可能性もありそう。

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竹崎季長、安達泰盛と直談判に及ぶの図

 

元寇の発端は

 さてこの元寇の起こりであるが、そもそもはモンゴルのフビライ・ハンが日本に通商を求める国書を送ってきたのを無視したことによるという。それは国書が脅しも入った高圧的なものであったことなどから朝廷は大混乱し、結局は返書を送らないことになる。

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若き執権・北条時宗

 しかしこれに激怒したフビライは高麗に出兵の準備をさせながら二回目の国書を送ってくる。なおモンゴルが日本に通商を求めた目的は日本で豊富に取れる硫黄が目当てだったという。火薬の原料として不可欠の硫黄だが、中国は意外と火山が少ないために確保が困難だったのだという(一方の日本は硝石が産出しないのだが)。だから硫黄を確保すると共に、南宋への日本の硫黄輸出を止めることを考えていたのだという。しかしこの国書を18歳で執権に就任した北条時宗が無視をする。これは日本は南宋と友好関係を結んでいたことなどからだという。また時宗は南宋から来た僧などから蒙古の侵略の様子を聞いており、蒙古に対する敵対心を持っていたという。

 

そして二度目の蒙古襲来

 文永の役の二年後に時宗は石積みの防塁を作らせて博多湾の守りを固める。先の戦いで敵軍を容易に上陸させてしまった反省からだという。その頃にまたフビライから国書が送られてくる。しかしこれに対して北条時宗はモンゴルからの使者を切り捨てて徹底抗戦の意志を示す。南宋を滅ぼした蒙古は支配下の高麗と南宋から総勢14万という大軍勢を派遣する。しかし南宋からの江南軍の出航が手間取る。船の建造などが遅れていたのだという。結局は高麗からの東路軍よりも一ヶ月以上遅れて合流することになる。その結果、夏の暑さで東路軍の船内には疫病が流行するし、台風のシーズンになってしまう。

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復元された元寇防塁

 この時に台風が来たと推測されるのだが、実際に京都の貴族の日記に嵐が発生したことが記されており、台風上陸は間違いないとのこと。上陸できなかった蒙古軍は嵐で壊滅、一部の上陸した兵もその後の日本側の攻撃で駆逐され、フビライの野望は阻まれることとなる。

 

 以上、蒙古襲来の顛末。最近は文永の役は嵐に遭ったのではなく、蒙古が自ら撤退したというのが通説となっています。また一方的にやられまくったというイメージのある日本軍ですが、意外と善戦したとの話もあり、特に夜間のゲリラ戦は地の利のないモンゴルに恐れられたという話もあります。また万全の準備を持って望んだ弘安の役では、徹底した沿岸防御で、結局はモンゴル軍の上陸を許していません。上陸できずにオタオタしているところで台風の襲撃を受けて壊滅したと言うことのようです。

 ところでこの時に日本軍は火薬を使った兵器に遭遇したわけですが、その後に日本で火薬が使われた形跡はなく、結局は日本で火薬が使われるようになるのは戦国時代になって鉄砲が伝来してきてからになります。この時には火薬の正体が分からなかったと言うことでしょうか? もっとも日本で火薬を調合しようとしても、硫黄は腐るほどありますが、硝石が入手できないので難しいでしょうが(結局は戦国時代以降も硝石は人糞や蚕の糞などを発酵させて得るしかなかった)。

 

忙しい方のための今回の要点

・二度に及ぶ元寇であるが、最初の文永の役では嵐が起こったということが考えにくく、蒙古軍は冬になって撤退が困難になる(逆風になる)のを避けて早めに撤退したと推測される。
・なお蒙古襲来絵詞はこの時に一番駆けの功績を上げた竹崎季長が作らせたものである。・竹崎季長は幕府がなかなか恩賞を出さなかったため、自ら鎌倉に出向いて直談判に及んでいる。
・弘安の役の前には幕府は博多湾に石塁を築いて万全の防御で迎え撃った。そのために蒙古軍は上陸が出来ず、また江南軍との合流が遅れたことで台風の直撃を受けた。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局は蒙古の侵略を退けはしたが、この時の御家人の活躍に対して幕府は恩賞を与えることが出来ず、それが鎌倉幕府の滅亡につながっていきます。また執権の北条時宗もこの後に若くして過労死してしまいますし。一方のフビライはというと、この躓きがきっかけでモンゴル帝国自体が揺らいできます。そして結局は世界帝国だったモンゴルも解体して力を失うことに・・・というわけで、関係者全員にとって不幸だった戦争です。

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