教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"逆境を耐え抜いた二組の夫婦の物語" (7/29 NHK 歴史秘話ヒストリア「だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩松下幸之助むめの」から)

 世の中の動乱に巻き込まれた逆境の中で支え合った夫婦の物語。まあかつての総集編の二本立てと言ったところです。

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政略結婚から愛し合う夫婦となった溥傑と浩

 一組目は満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と浩の夫婦。浩は日本の華族の令嬢であり、この婚姻は軍の思惑もある政略結婚である。しかし最初は「なぜ中国の人と」と思っていた浩も、見合いの席で対面した溥傑に好感を抱き、同様に溥傑も浩に惹かれたとのことで、政略結婚でありながら夫婦仲は非常によいものであったという。

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愛新覚羅溥傑・浩夫妻

 ただし溥傑の兄の溥儀は浩がスパイであるとずっと疑っており、浩が出した料理は溥傑手をつけるまで絶対に手をつけなかったという。また溥儀にはそうならざるを得ない理由があった。溥儀は関東軍から溥傑に男子が生まれた場合には次期皇帝位をその子に譲ることを密約させられていたのだという。関東軍は満州国皇帝に日本人の血を入れて完全に乗っ取ることを画策していた。

 

日本の敗戦で離ればなれとなり、16年後にようやく再会

 そんな周囲の思惑とは関係なく睦まじく暮らしていた二人だが、その二人も必然的に歴史の動乱に巻き込まれる。二人の間には二人の女の子が生まれるが、やがて日本は敗戦となり、ソ連軍が満州への侵攻を開始する。この時に溥傑は兄の溥儀と共に空路で、浩は娘たちと陸路で移動することになった。日本で再会する予定で別々の行動をとった二人だがこれが永の別れとなる。

 まず溥傑が溥儀と共に飛行場でソ連軍に拘束される。また浩達も脱出はかなわず中国共産党軍に捕らえられ、劣悪な環境で厳しい取り調べに会うことになる。浩が日本に帰国できたのは1年半後の浩が32歳の時であった。

 復興を遂げる日本の中で浩は夫の消息さえ分からない先の見えない生活を送っていた。そんな浩が40歳になった1954年の秋、突然夫の溥傑からの手紙が届く。溥傑は撫順の戦犯管理所に収容されてたのだという。会うことの出来ない二人は手紙のやりとりをして互いの近況を伝え合う。

 浩には溥傑との手紙と二人の娘の成長が支えだった。しかしそんな彼女を悲劇が襲う。1957年、長女の慧生が亡くなったのだった。心中とも無理心中とも言われているが、浩は自分の責任を感じてうちひしがれるが、溥傑は「もし罪があるとしたら父である私にだ」と彼女を慰める。

 1960年、溥傑は53歳でようやく釈放される。翌年、浩は次女の嫮生を連れて溥傑の元に向かう。そして二人は16年ぶりに再会する。再会した溥傑は妻に若い頃のように腕を組みませんかと声をかけたという。二人はその後、北京で暮らしたという。結婚後初めてのこの心穏やかな日々は浩が亡くなるまで26年続いたという。

 

幸之助を支えて松下電器の発展に貢献したむめの

 二組目は日本最大の電器メーカーを作り上げた松下幸之助とその妻・むめの。二人は見合い結婚であったが、むめのは影から幸之助を支え続けた。配線工の仕事をしていた幸之助が、上司との折り合いが悪くて仕事を辞めてお汁粉屋でもすると言い出した時は、むめのはあくまで反対したという。お汁粉屋があなたが本当にしたい仕事ではないでしょうという意味である。むめのの言葉に「自分にはやはり電気しかない」と思い直して、配線器具を製造する松下電気器具製作所を創業するこの時にむめのが頑として反対しなければ、松下電器は存在せず、松下汁粉店になっていたわけである(すぐにつぶれた気がする)。

 しかしわずかな人数で始めたこの会社はなかなか軌道に乗らず、むめのは生活費の確保のために質屋通いを続ける日々だった。しかし幸之助はようやく延長ソケットや、ヒット商品となった二股ソケットの開発に成功する。

 会社の売り上げが伸びると共に社員も増える。この社員達の面倒を見たのがむめのだったという。会社の寮暮らしの若い社員のために、むめのは大鍋で彼らの食事を作ったり、身の回りの世話もしていたという。

 こうして家族のように一丸となっていた松下電器を大恐慌が襲う。多くの企業が社員の首を切ってしのごうとする中で、幸之助はあくまで社員を守ることにこだわったという。この決断に社員達も強く結束、会社は何とか苦境を脱出する。

 しかしこの後、日本は戦時色に突入し、松下も軍需産業への協力を求められる。しかしこのせいで戦後に幸之助はGHQによる公職追放の対象となり、松下電器の社長の座を追われることになる。

 だがこれに対して立ち上がったの従業員達だった。彼らはGHQに対して幸之助の社長復帰を求める嘆願書を提出したのだった。社員やその家族1万5000もの嘆願は通じ、4ヶ月後にGHQは幸之助の公職追放を解除する。

 社長に復帰した幸之助は家電製品の開発に力を入れる。これらの商品を実際にテストする商品モニターをしていたのがむめのだという。こうして松下電器は多く成長、幸之助はTimeに取り上げられるぐらいの日本の財界の代表者となるが、そこには共同経営者としてのむめののことも書かれていたという。二人は二人三脚で常に苦境を乗り越えてきたのである。

 

 人の縁とは本当に分からないものである。溥傑と浩のようにそもそもは周辺の思惑による結婚だったのだが、当人同士が真に愛し合って睦まじい夫婦になる場合もあれば、当人同士が恋愛で結婚したはずなのに、すぐに不和となって離婚してしまう夫婦もある。結婚経験のない私が夫婦のことに云々する資格はないが、やはり互いに相手を思いやることが出来るかどうかが鍵となるのだろう。出会いのきっかけなんかは関係のないことのようである。

 幸之助とむめのもそもそも見合い結婚なんだが、まあよくもこの難しい亭主を上手く操縦したものだと感心する。幸之助が後に「奥さんのおかげ」と発見したのは、幸之助もむめのの内助の功は強く感じていたのだろう。男を大きくするのは妻次第なんて言葉もあったが、それを実践したのがまさに彼女だったと言うこと。もっとも今の時代にこんなことを言えば、時代遅れの男尊女卑思想と言われるだろうか。まあ夫婦の関係なんて、夫唱婦随であろうが、婦唱夫随であろうが、完全平等であろうが、要は当人達が納得して上手く行っていたらそれで良いんだろうけど。

 

忙しい方のための今回の要点

・満州国皇帝溥儀の弟である溥傑は、政略結婚で日本の家族の令嬢である浩と結婚する。・しかし二人は政略結婚であっても互いに深く愛し合い、二人の娘を儲ける。
・だが日本の敗戦で日本に帰還する途中で二人は離ればなれになる。
・中国共産党軍に捕らえられた浩は、厳しい取り調べを受けた上で1年半後にようやく日本に帰国できるが、夫の消息が分からないまま娘たちと先の見えない生活を送る。
・ようやく戦犯収容所の溥傑から手紙が届いたのが6年後、それから二人は永らく手紙のやりとりを行う。
・二人が再会できたのは別離から16年が経ってのこととなる。
・松下幸之助と見合い結婚したむめのは、電気屋を辞めてお汁粉屋を開くという幸之助に猛反対。これで幸之助は思いとどまって松下電器を創業することになる。
・生活苦の中でむめのは質屋通いで生活を支え、会社が大きくなってくると社員達の面倒も見た。
・大恐慌の中でも幸之助はあくまで従業員を解雇せずにしのいだ。
・戦時に軍需産業への協力を問われてGHQによる公職追放に幸之助は会うが、従業員やその家族の嘆願によって公職追放が解かれる。その後の松下電気は家電品開発で成長していくが、その製品テストはむめのが行っていた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・夫婦に限らず、人間が成功するには良き仲間がいたかどうかということは大きいようです。特に夫婦というのは一番身近で支え合う関係だから、影響が大きい。
・しかし現代はそういった家族の形というのが急激に変化を遂げつつある時代です。今までの夫婦単位から、お一人様単位に移りつつある。
・結婚というのは良い面が多々ありますが、リスキーな面もありますから(とんでもない配偶者のせいで人生滅茶苦茶になる者もいる)、そういうリスクが避けられるようになってきたんですかね。私の回りの男連中の間からも良く聞こえてくる声は「結婚にメリットが感じられない」というもの。また今の時代はまともに子供を育てるということが困難な時代ですから、そういうストレスも大きい。
・何しろ世の中には子供を引きニートにするための仕掛けはごまんとあり、さらにはそれらのトラップをくぐり抜けてまともに育てたと思ったら、まともに育たなかった他所の子供の犠牲にされるなんていうとんでもない時代ですから。

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