教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"明治日本への道筋を作った薩摩の名君・島津斉彬" (8/24 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「西郷隆盛を育てた名君・島津斉彬」」から)

幼少時から神童だった島津斉彬

 幕末の薩摩で活躍した島津斉彬は、西郷隆盛を取り立てたことでも知られており、斉彬に心酔していた西郷は彼が亡くなった時には殉死することまで考えたと言われている。本人は明治を迎える前に亡くなってしまったが、実は日本のその後に大きな影響を与えたと言われている名君・島津斉彬について紹介。

f:id:ksagi:20200826225430j:plain

島津斉彬

 島津家10代藩主斉興の長男として生まれた斉彬は、幼児期から実母に英才教育を受けた斉彬は「二つビンタ(二つ頭があるほど賢い)」と言われるぐらいマルチタスクにも長けた神童だったらしい。幕府では「外様でなければ老中などになれたのに」と惜しむ声もあったという(この外様だから老中になれないというような硬直した幕府のシステムが、江戸幕府が倒れた最大の理由だと私は思うが)。

 

父の斉興が藩主就任に抵抗する

 しかしそんな優秀な斉彬だが、それにも関わらずなかなか藩主の座が回ってこなかった。それは父の斉興が藩主の座を譲らなかったからなのだが、それには理由があった。

 斉興は19才で藩主になったものの、実権は斉彬の曾祖父である重豪が握っており、斉興がようやく藩主として実権を握れるようになったのは重豪が亡くなった43才の時で、この時に斉彬は既に25才だった。さらに斉興は藩主になった早々深刻な財政危機に苦しめられることになった。原因は蘭学に傾倒した重豪の浪費だった。蘭癖と言われた重豪は金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを購入、さらには藩校・造士館や天文観測施設である「天文館」を建設するなどを行った。これらが藩の財政を圧迫し、一時は500万両(約5000億円)もの借金を抱える状態になったという。いきなりこの財政の建て直しを迫られた斉興は密貿易や抜け荷で財政建て直しを図り、10年後には50万両の備蓄を作るところまで藩の財政を建て直した。そんな斉興の目から見た場合、重豪の影響を受けて蘭癖を継承している斉彬は「また財政を傾ける」と懸念して斉彬に藩主の座を譲ることに反対したのである。

 また斉興は西洋諸国の脅威を受けて軍事力の強化を図ったが、斉彬はそれに対してそれでは甘くもっと近代化を進めるべきと主張。しかしあくまで藩の財政を第一に考える斉興はその考えを容れず、斉興と斉彬は対立することになってしまう。さらには斉興は財政再建の功で朝廷から従三位の官位を得ることを狙っていたという話もあるとのこと。

 しかしこの両者の対立はついには抜き差しならない事態になる。斉興が留守中の国元のことを斉彬の弟の久光に託すようになったことから、斉彬の周辺は久光を次期藩主にするつもりではと勘ぐることになる。さらにはその背後に久光の母で斉興の側室のお遊羅の方がいるという噂になる。その頃、斉彬の息子が相次いで病死するという事態が発生し、お遊羅の方が呪いをかけたという噂が出る。そしてとうとう斉彬派の家臣達がお遊羅の方の暗殺を目論み、これが斉興の耳に入ったことから斉彬派の12人が切腹、38人が磔や島流しにされるという事態に及ぶ。

 こうして激化した両者の対立だが、このお家騒動が幕府の耳に入り、斉興は責任をとって隠居させられることになって斉彬が43才で11代藩主に就任することになったのだという。

 

薩摩の近代化を強力に推し進める

 斉彬はまず軍備の強化及び近代化を進める。まずは西洋に対抗するために幕府に禁じられていた大型船の製造を行う必要があると考える。そんな中ペリーの来航が発生、斉彬はこの期を捕らえて幕府に大型船製造の解禁を願い出てそれを認めさせる。そして西洋式の軍鑑昇平丸を建造する。さらには日本初の蒸気船まで完成させたという。

 さらには鉄の大砲を製造するための反射炉の建設にも取り組んだ。既に反射炉の建設に成功していた佐賀藩から西洋の書物を取り寄せ、さらには独自の技術を開発させてついには反射炉の製造を行い、合わせて溶鉱炉も製造して鉄の大砲の製造に成功する。さらには蒸気機関の研究なども行い、これらの施設をまとめた集成館を建造する。

f:id:ksagi:20200826230401j:plain

反射炉跡

f:id:ksagi:20200826230558j:plain

大砲のレプリカ

f:id:ksagi:20200826230416j:plain

集成館

 さらに斉彬は産業の育成も行う。ガラス工業の発達により誕生した薩摩切子は外国への輸出を考えたものであり、薩摩焼も輸出を考えたデザインに変更したという。さらには日本全体を強化するために他藩の視察なども受け入れたという。斉彬は日本全体が一つになって諸外国に対応できるようにすることを目指していた。

 

人材登用などにも務めるが志半ばでの突然の死

 さらには人材登用にも力を割いた。付和雷同のような者ではいざという時に役に立たず、偏屈な人物こそがそういう時に役に立つと考えていたという。その結果、西郷隆盛らが取り立てられることとなる。斉彬は西郷を江戸に側近として連れて行き、諸藩との連絡などに当てた。この経験が後に西郷が明治維新の立役者となるための下地になったという。
 なお一橋派であった斉彬は篤姫を政治利用したと言われているが、実際はこの縁組みは幕府の方から申し込まれたものであり、将軍後継問題とは関係ないとのこと。なお家定と篤姫の間には子は出来ず、井伊直弼が大老となって実権を掌握したことで次期将軍は慶喜ではなく家茂が14代将軍に就任する。ここで斉彬は薩摩の兵を率いて京に上ろうとするが、その最中に病死する


 以上が斉彬の生涯ですが、あまりの突然の死だっただけに暗殺説もあったりします。ましてや挙兵準備中となればなおさら。まあ安政の大獄であれだけ処刑した井伊直弼だったらやりかねないなんて考えが出るのも当然ですが、問題は遠く薩摩まで手を伸ばして斉彬の近くで陰謀をなすことが出来たかどうか。斉彬が江戸屋敷にいた時に急死したのならともかく、薩摩にいてですからね。

 だけど実際に、斉彬が存命のままで明治維新を迎えていたら、もっと新政府の形は違った可能性があります。そもそも薩摩藩が倒幕に向かったかどうかも不明。少なくとも斉彬は幕府を雄藩が支えながら挙国一致体制を作るという考えでしたから、新政府が設立したとしても慶喜が関与した形になった可能性が高いだろうと考えられる。となれば、もっと穏健な明治維新になったかも。となると長州の出番がない。

 

忙しい方のための今回の要点

・島津斉彬は幼少時から優秀であると知られていた。
・しかし蘭癖の8代藩主重豪の浪費による財政悪化で苦労した10代藩主の斉興(斉彬の父)は、斉彬の蘭癖を警戒して斉彬に家督を譲ることに抵抗した。
・斉興と斉彬の対立はやがては斉興が斉彬派の藩士を大量粛正する事態に至るが、このお家騒動の結果、斉興は幕府から隠居を迫られることになって斉彬が藩主に就任する。
・藩主となった斉彬は薩摩藩の近代化を急速に進め、洋式の軍艦を建造したり、反射炉を建設して鉄製の大砲を製造したり、薩摩切子などの産業育成にも力を入れる。
・また人材登用にも力を入れ、西郷隆盛などを取り立てた。
・大老井伊直弼が幕府の実権を握り、将軍家茂を立てた頃に斉彬は挙兵の準備にかかるが、その最中に病死する。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・斉彬が暗殺されたとしたら、当然のように久光も容疑者になるのですが、一般的に久光と斉彬自身は特に対立関係はなく、久光に斉彬を排除するような意志は毛頭なかったとされています。父親が長男を嫌って弟を立てようとしただけで、謂わば武田信玄と信繁の関係のようなものだと。信玄は信繁をかなり信頼していましたが、斉彬も久光を信頼していたという話もあります。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work