教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

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9/1 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「天下人・豊臣秀吉死す!」

秀吉にまつわる新発見を踏まえて、最晩年を検証する

 今年は秀吉に関する大発見が立て続けに発生した。5月には秀吉が最後に建てたもののその詳細が不明で「幻の城」となっていた京都新城の遺構が発掘されるというニュースがあり、6月には秀吉の養子である秀次に仕えた駒井重勝が記した「駒井日記」の自筆原本の一部が発見された。これらの新発見を踏まえた上で天下人となった秀吉の最後の7年間を見ていこうという内容。

 まず秀吉の死の7年前の1591年、天下統一を成し遂げた秀吉は、淀君との間に授かった息子・鶴松をわずか3才で失うという不幸に見舞われている。後継者のいない秀吉は甥の秀次を養子に迎えて関白職を譲り、自らは太閤となる

 

スペインを牽制するために明国支配を目指した

 そして秀吉は明国征服を目指して足がかりとして朝鮮征服を計画する。この遠征に関しては様々な理由が憶測されており、果ては「秀吉がとうとう耄碌した」という説まであるのだが、しかし東北大学名誉教授の平川新氏によると、世界征服を狙うスペインがフィリピンを拠点に明や日本への侵攻を考えていたので、秀吉はスペインの機先を制して自らが明国を征服してスペインを抑えようと考えていたとの説である。

 この戦国日本が当時の世界情勢と密接に関係していたという考えは最近になって言われ出したことであり、以前に放送されたNHKスペシャルの「戦国」はもろにこの視点で戦国史を評価し直していた。もっともあの番組においての秀吉の意図は、この番組とは若干違う解釈となっている。

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 そして秀吉はこの朝鮮侵攻のために大阪城に次ぐ規模という巨大な名護屋城を建設する。翌年、16万の軍勢を朝鮮に送る。これがいわゆる文禄の役である。日本はわずか半月で朝鮮の首都を陥落させ、ほぼ全土に制圧する。この時に秀吉が秀次に送った書簡で、後陽成天皇に北京に移ってもらい、秀次が大唐関白となり、日本は天皇の皇子か弟に日本の天皇となってもらい、朝鮮は豊臣秀勝か宇喜多秀家が統治するという三国国割り構想を披露している。秀吉はまさにアジアの盟主となるつもりでいたのだという。さらにはフィリピンのスペイン人フィリピン総督にまで服従せねば兵を送るという脅しをしていたらしい。

 しかし快進撃を続けていた日本軍も明国の介入によって膠着状態に陥る。そこで講和交渉をすることになったのだが、この時に秀吉は朝鮮の半分を支配することを要求、明がそれを拒絶したことで決裂する。

 

秀頼誕生によって秀次を切り捨てる

 その頃に秀頼が誕生するが、そのことは先の駒井日記にも記されており、さらに秀頼と秀次の娘を将来結婚させることを秀吉は考えていると秀吉の側近の木下吉隆が言ったということも記してあるとのこと。この時点では秀吉はまだ円満に秀次に秀頼の後見をさせるつもりでいたようだ。

 しかし秀吉が秀頼を溺愛する内に段々と行動が変わってくる。秀頼に関白を継がせたくなってきたのである。駒井日記によると秀頼が生まれた4ヶ月後に秀吉が秀次の尾張支配に対してダメ出しをしたことが記されている。堤防を築けとか作業に従事する農民達には酒や餅を配れとか陰陽師に祈祷させ路など事細かな指示が秀吉から送られてきたらしい。つまりこれは秀次に国を支配する器量がないと言っているに等しく、秀次排除の意図が垣間見えている。秀次が謀反の疑いをかけられて切腹させられるのはこの2年後である。秀次のみならず一族全てを処刑するという徹底ぶりであり、秀次のいた聚楽第まで取り壊す。しかし結果としてはこれが大悪手で、秀次健在なら家康の天下もそう易々と実現しなかった可能性が高い。秀頼可愛さで完全に判断を誤っている。

 そして秀吉は伏見に城を築こうとするのだが、この時に直下型地震が発生し、秀吉自身も被災している。この自身がきっかけで改元されることになったという。

 

秀吉の活力源と京都新城に見る朝廷戦略

 秀吉の死の1年前に第二回目の朝鮮出兵(慶長の役)が実行される。この時点ではまだ秀吉は気力も充実していて健康体だったという。秀吉は300人の側室を抱える精力絶倫ぶりだが、その活力の元はドジョウ鍋だったというのがこの番組の見立て。この後は唐突にドジョウ鍋の紹介になるがこれは蛇足。ちなみに浅草の老舗店で私はドジョウ鍋を食べたことがあるが、あれは美味かった。

 で、最初に出てきた京都新城であるが、その遺構は京都御所内の京都仙洞御所の一角から野面積みの石垣に桐紋の入った金箔瓦が見つかったことから、秀吉の京都新城だと確定したとのこと。この京都新城は関白となった秀頼が朝廷に対してその存在をアピールするために建設したという。そして秀頼の元服がこの城でなされる。しかし秀吉の死後に秀頼は大阪城に移ったので、京都新城は1年ほどしか使われずに破却されてしまう。

 

秀吉の死とその死因

 秀吉は醍醐の花見で豪遊するが、朝鮮出兵は思わしくなく、報告を聞いて激怒したという。そして第三次派兵として福島正則・石田三成・増田長盛などを派遣するという構想を家臣に伝えていたという。しかしその2日後、秀吉が唐突に病に倒れる。最初は下痢などの症状が出て、やがて倦怠感、脱力感、食欲減退に尿失禁、手足の痛みなどの症状が出たという。一度は回復して朝鮮出兵の指示を下すが、病状は再び悪化して秀吉も自らの死期を悟る。そして家康らに秀頼のことを託してこの世を去る。

 秀吉の死因は未だに不明らしい。イエズス会宣教師は「赤痢を患った」と記しているというが、赤痢だとあまりに亡くなるのに時間がかかりすぎているという。胃がん説もあるがそれも疑問があるという。番組では脚気説を挙げている。若い頃は雑穀を食べて元気だった秀吉も、出世して白米を食べるようになったことから脚気になったのではという考えである。

 秀吉の死は日本の兵達が朝鮮半島から引き揚げるまで伏せられたという。秀吉は自身を「新八幡」として神になることを望んだというが、後陽成天皇が与えたのは「豊国大明神」だった。これには秀頼やおね、家康の意向を受けてのことであるという。どちらも武の神という性質があるので実質的にはそういう違いがないが、豊国には「日本を代表する」というニュアンスもあるという。これは対外的に日本の豊臣体制が盤石であることをアピールする目的があったのではとのことだが、当の家康がその豊臣家を盤石でなくならせるのだが。ちなみに家康は後に京都の豊国神社を破却させているという。


 以上、秀吉の最晩年について。こうして改めて年数を追って見てみるとなんともはや慌ただしい人生だったことが分かる。ただ「相次いで新発見が」などと煽っていた割には、初めて聞いたのは京都新城のことぐらいで、それも「だからどうなの?」程度の内容。まあ秀吉周辺で今更画期的な新ネタというのもしんどいだろうが。

 

忙しい方のための今回の要点

・秀吉の朝鮮出兵は、明国を征服してスペインによる明や日本への侵略意図を挫くという目的があった。
・秀吉は朝鮮を足がかりに明国を征服した後、一族などで分割統治して自らはアジアの覇王になるという構想を持っていた。
・しかし日本軍は明の参戦によって戦線が硬直、和平を結ぶことになるが秀吉の要求が通らずに決裂する。
・秀吉は最初は秀次の娘と秀頼を結婚させて秀次に秀頼を後見させるつもりだったが、徐々に秀次を排除して秀頼を関白にしようと考えるようになり、結果としては秀次に謀反の容疑をかけて切腹させる。
・秀吉は秀頼のために京都新城を建設、この城に関白となった秀頼を入れて朝廷にその存在をアピールすることを考えていた。
・秀吉は第二次朝鮮出兵の最中に突然病死する。死因ははっきりしていないが、番組では脚気説を唱えている。秀吉は出世してからは白米を好むようになっていたので、ビタミンB1が不足していた可能性はある。
・秀吉は死後に豊国大明神として祀られるが、これは武の神である。なお京都の豊国神社は後に家康によって破却された。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・戦国時代の歴史にヨーロッパを中心とした海外の情勢が反映していたというのは、先のNHKスペシャル辺りでもいわれていた最近になってさかんに出てくるようになった考えですが、確かにあの時期にヨーロッパの海外進出が盛んになり、アジアの各国が征服されていったことを考えると、日本がそれと無関係だったはずはないんですよね。

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