ゲノム編集技術の衝撃
3ヶ月ほど前に放送されたNHKスペシャルの大型企画の続編。今回のテーマは進展著しいゲノム編集技術について。しかし技術の進歩に人間の意識と倫理がついていっていない危うさを示す。
これまでゲノム情報の解析には膨大なコストがかかっていたが、そのコストは年々低下しており、2030年には限りなく0に近づくとされている。ゲノムで生物を設計出来る時代が訪れようとしているのである。しかしこれは新たな問題を起こすのは必至である。
ゲノムテクノロジーが革命を起こしているのは中国、杭州市の病院ではゲノムテクノロジーを活用したガン治療が行われている。他の病院では治療が困難とされた末期患者が次々とやって来る。彼らは遺伝子治療を受けることによってがん細胞と戦う力を強化するのだという。中には食道ガンで余命3ヶ月と診断されたが、この治療でガンがコントロール可能なレベルまで抑えられたという男性患者もいる。
その手法とは体内でがん細胞と戦う免疫細胞であるキラーT細胞の遺伝子を操作して、がん細胞への攻撃力を高めるのだという。中国ではこの手の新治療が続々と生まれており、世界の他の国でも研究がなされているという。
ゲノムを思い通りに編集出来る時代の到来
ゲノムを思い通りに操作する技術は2020年にノーベル賞を受賞したジェニファー・ダウドナ博士によって開発された。彼女はクリスパー・キャス9という特殊なタンパク質を細胞内に注入することで巨大なゲノムを任意の場所で切断する技術を開発した。これで切断した部分に組み込みたいゲノムを持ってくることで思い通りにゲノム編集が出来るのだという。
既にこの技術は作物の収穫量を増やしたり、温暖化に強い作物を開発したりなどに適用されている。人類が直面する未来の課題に対応出来る可能性のある技術であるわけである。
中国ではゲノムテクノロジーを成長分野に位置づけて力を入れている。現在のコロナ禍でも中国のある企業が注目された。その企業が開発したのは、通常はコロナに感染しないマウスに対して、人間のゲノムを導入することによって人間と同様にコロナに感染するようにしたものである。コロナ研究のための実験動物として世界中から引き合いが来ているという。このようにゲノムを操作した生物が次々と生まれている。
ゲノム編集の危険性
しかしこのような技術から懸念される危機がある。一つは個人が未知のウイルスを作って解き放ち、パンデミックを起こす可能性である。さらには人間の受精卵を操作するという倫理的問題である。使い方を誤ると人類の種の存続の危機さえも呼びかねない。実際にゲノムを一から作り出して非常に高い感染力を持つウイルスを合成した研究者も存在する。その研究者はこの技術の危険性を警告している。
中国雲南省にある世界最大級の霊長類の研究所では、ゲノム編集によってヒトとサルのゲノムの混ざったキメラを作り出す研究がなされている。この研究は多くの国で倫理的観点で禁止されているものでもある。彼らの目的は動物に人間の臓器を作らせて移植用臓器にするということである。
しかしさらに人間の受精卵をゲノム編集して望む特徴を持つ子供を産み出すというデザイナーベイビーという禁断の領域に足を踏み入れた科学者もいる。中国の若手研究者の賀建奎氏が、人間のゲノムを編集してエイズウイルスに感染しにくい双子の女児を誕生させたと発表した。その発表会見は世界中の研究者が集まって騒然としたものとなり、倫理面の問題を指摘する厳しい質問も相次いだ。その後、賀氏は中国当局の取り調べを受けて違法医療行為の罪で公の場から姿を消したという。この分野ではまだ世界的に確立したルールは存在していない。研究者が集まった国際委員会は、当面はゲノム編集した受精卵で妊娠させるべきではないという結論に至った。
ゲノム編集が産み出す新たな社会的格差の可能性
しかしその一方で遺伝病などの治療にゲノム編集をするべきと考える研究者もいる。彼らは倫理の狭間で揺れている。中にはさらに技術を進めて、人間の能力をゲノム編集で強化することがむしろ人類の公平につながると主張する研究者さえ存在する。
だがこのようなゲノム編集の技術は実際には誰にも平等に適応されるというものではない。当然のようにここにさらに貧富の格差が絡んでくる。富裕層は金銭を投入して優秀な子供を設計し、その費用がない貧困層は低能力者として無用者階級とまともに仕事にさえ就けない。そのような未来さえも想定される。すべてがゲノムで判断されてしまうのである。
ゲノム編集の技術を一般の人にも普及させたいと、世界中にゲノム編集のためのキットを販売している人物もいる。目下はバクテリアのゲノム編集のものだが、将来的には自宅で高度なゲノム編集もできるようにしたいという。
技術の進歩に人の意識の方がついていっていないのが現状である。ゲノム編集は下手をすると優生学に結びつきかねず、多様性の否定にさえなりかねないということを懸念する人もある。
非常に難しい問題である。実際にこのペースで行くと間違いなく人間の遺伝子も普通に操作出来るようになるだろう。そうなった時には確かに現在のような遺伝病で悩む人はいなくなるのかもしれないが、そこでいわゆる障害者などは「存在してならない者」として生存自体が否定されることになりかねない。
それに何をもって「優秀な人類」と評価するかである。目下は生存に有利と考えられる要素も、環境の変化などで逆に生存に不利になったり、あるいは何かの特性を操作することが他の特性に思いがけない悪影響を及ぼす可能性もある。例えば本来は「消化吸収効率が高い」というのは生存にとっては有利な条件だったはずだが、飽食の時代にはこの特性は成人病などになりやすく不利な条件になっている。だからといって成人病を防止するために「いくら食べてもあまり吸収しない」という特性を付与された人類ばかりになったら、食糧危機に陥った時に絶滅という可能性さえある。
そもそも「理想的な人類」を目指す結果は、極端に人類の種としての多様性を狭める可能性がある。そうなった生物は何かの時に一斉に絶滅してしまうのは進化の常識でもある。
さらに未知のウイルスの発生の問題もあったが、人間と動物の遺伝子を掛け合わせたキメラとなったら、彼らは人類か動物かという問題さえも持ち始める。いわゆるデミヒューマンの類いなど、ファンタジー世界ならともかくとして、現実の世界に登場したらそれは非常に問題の多いものとなってしまう。まさに未知のモンスターを産み出しかねない。
とにかくパンドラの箱を開いてしまったのではという気持ちに駆られるのがゲノム編集の話である。これに結論を出すのはとにかく難しすぎる。しかし避けて通れない話でもある。
忙しい方のための今回の要点
・ゲノム解析のコストは急激に低下しており、2030年には限りなく0に近づくと推算されている。
・またクリスパー・キャス9を使用して、ゲノムを任意の場所で好きなように編集出来る技術が開発された。中国などでは既にキラーT細胞のゲノムを編集してガンを抑制するという治療が開始されている。
・しかしこのようなゲノム編集技術の発展は、個人が未知のウイルスを生成してパンデミックを起こす危険や、人の遺伝子を編集するデザイナーベイビーの可能性などを秘めている。
・実際に中国ではゲノム編集をしてエイズに感染しにくくした女児が誕生したとのニュースが世界を駆け回り、倫理面での論争を巻き起こした。
・またヒトとサルなどのゲノムを混ぜたキメラを作り出し、移植用の臓器を動物に作らせようという研究も存在している。
・ヒトのゲノムの編集は、望ましいように自由にゲノムを設計出来る富裕層と、それが出来ずに低能力者として差別されることになる貧困層の格差をさらに拡大する可能性があることも指摘されている。
忙しくない方のためのどうでも良い点
・開発してしまった技術を封印することは人類にはまず出来ないので、どう制御するかですが、原子力でさえ制御出来ていない人類にとってはかなり心許ない気がします。正直なところ、この技術の向かう先には私はディストピアしか見えないのが本音です。
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