教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/9 BSプレミアム 英雄たちの選択 「この世をば我が世とぞ…?~藤原道長 平安最強の権力者の実像~」

平安末期の実力者、藤原道長の素顔

 藤原道長といえば摂関政治で頂点を極め、平安時代末期に独占的な権力を奮ったというイメージがあり「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という句でイメージされる暴君の印象がある。しかし彼の実像はややイメージが違うという。なお藤原道長は以前ににっぽん!歴史鑑定でも扱われているのだが、正直なところ内容はほとんど被る。

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姉が天皇の子を産んだことで出世する

 道長の登場した時代は藤原氏の中での権力争いが激しかった。道長の父兼家は富士ワシの中でも権力争いに負けた側で、権力からは遠かったという。しかし兼家の娘の詮子が円融天皇の皇子の懐仁親王(後の一条天皇)を出産したことで状況が変わる。兼家は一気に右大臣にまで昇進する。当時の宮廷では天皇の母の権限はかなり強かったという。そして一条天皇が幼くして即位すると後見になった詮子によって兼家は摂政に弟の道長も公卿に昇進する。

 しかし父兼家がこの世を去り、藤原家では権力争いが始まる。道長の兄で兼家の長男の道隆が娘の定子を天皇の中宮として外戚となる。道長は姉の詮子の引き立てで中宮大夫という後宮の事務などを扱う職に就くが、ここでの経験や人脈が後に力になることになるという。道隆は息子の伊周を後継者として内大臣に抜擢して翌年995年にこの世を去る。この年、疫病の流行で朝廷内でも多くが亡くなり、朝廷を仕切れるのは道長と伊周だけになる。この時に詮子が一条天皇に道長を強く推薦し、天皇は道長を内覧という関白と同等の地位に当たる重職に任命する。しかしこれに不満を感じた伊周と道長は対立することになる。

 しかし996年、伊周が花山法皇従者二名を殺害する乱闘事件を起こしてしまって墓穴を掘る。伊周は太宰府に左遷され、その間に道長は娘の彰子を一条天皇に入内させる勝負に出る。一条天皇には既に伊周の妹である定子という后がおり、二人の仲も良好であったという。当時は天皇が二人の后を持つことは前例がなく、公卿達が反発するのは必至だったが、道長としては伊周の復活を防ぐには強引に事を進めるしかなく、道長は定子が一度出家したことがあることを取り上げ、仏門に入った后では神事を執り行えないと彰子の入内を公卿達に納得させる。

 

道長の素顔

 このような工作を見ると、道長とはかなり図々しくて大胆な人物と見えるのだが、その頃の公卿の日記には道長が心身を磨り減らせて重い病になったという記述があり、天皇に内覧を辞して出家したいと天皇に申し出たという。道長の38代目の子孫である近衛忠大氏によると、道長は辣腕の権力者というイメージとはかなり違うイメージであったという。もっと感性豊かで芸術家肌の繊細な人だったのではと言うのが彼の考えである。まあ確かに積極的に権力を取りに行ったと言うよりも、自衛のために権力を固めようとしたという見方はあり得る。

 また道長は気前が良いと言うか、自分の元に届けられた贈答品を公卿達に分け与えたりなどをしているという。また後宮の女性達にも菓子などを渡したりなどをしていたという。さらに清少納言仕える定子から、自分の娘の彰子の方に愛情が向くように、女流歌人として知られる和泉式部や赤染衞門、さらに紫式部も彰子に仕えさせている。一条天皇は源氏物語の愛読者だったので、一条天皇は自ずと彰子の元を訪ねてくるようになる。そして入内から9年で彰子は皇子を出産する。彰子の出産の模様は紫式部が記録に残しているという。これは道長の命によるものであるという。

 

三条天皇と対立し、ついには退位を迫ることに

 しかし1011年、道長に問題が持ち上がる。一条天皇の後を継いだ三条天皇との対立だった。三条天皇は道長の甥に当たったが、若くして権力を握った道長に対し、三条天皇は25年もの年月を皇太子のまま過ごすなど日の当たらない生活を送っていた。このことから三条天皇はことあるごととに道長を敵視した。独裁的に振る舞う三条天皇は公卿達を混乱させることになる。道長は娘の妍子を三条天皇に入内させるが、三条天皇は娍子を二人目の后に立ててこれを拒む。道長はそこで娍子の立后の日に妍子の祝宴を催す。その結果、公卿のほとんどが道長の祝宴に参加し、三条天皇の祝宴は閑散とすることになり、力の違いを見せつけることになる。しかし三条天皇は道長と対立する姿勢を崩さなかった。

 ここで道長の選択であるが、三条天皇に退位を迫るか状況を見るかである。三条天皇は目が悪く、片方の耳もあまり聞こえない状態であり、それでは天皇の仕事を全う出来ないと訴えることは可能であったが、他の公卿達が反発するのではというのが懸念事項である。番組ゲストは全員が「退位を迫る」であったが、実際に道長も退位を迫ることになる。

 

栄華を極めた時に詠んだ歌

 退位を迫られた三条天皇は、娍子の子である敦明親王を皇太子にすることを条件に退位を呑む。道長はその条件を呑む。そして次の天皇に道長の外孫に当たる後一条天皇が即位する。しかし三条天皇がその翌年に崩御、後ろ盾を失った敦明親王は自ら皇太子の地位を去る。そこで道長は三女の威子を後一条天皇に入内させて中宮とする。こうして天皇家との関係をより盤石のものとする。この時に威子の祝いの席で道長が詠んだとされるのが先の望月の歌という。ただこの歌が記されているのは藤原実資の日記だけであると言う。実資は道長と長年ライバル関係にあったとのことなので、何らかの意図が含まれている可能性もあるという。道長の子孫の近衛氏は「こんな畏れ多いことを詠んだとは思えない」と考えるし、ゲストの一人は「二次会辺りでヘベレケになったところで、思わず本音がボロっと出たのでは」とのことである。しかしこれが残ったことで貴族は悪いとなって、武士の世を正当化することにつながった大きな歌でもあるとしている。


 以上、道長について・・・なんだが、あまり新しいことはなかったな。道長が独裁的な人物でなかったという可能性はあるが、結果としては独裁的権力を行使しているのは事実なので・・・。道長が芸術家的嗜好があったのも事実だろうが、当時の貴族は多かれ少なかれ、そういうのも仕事の一環ではあったし、芸術家的嗜好があったことがすなわち権力欲がないというわけでもないのは、ヒトラーが画家崩れだったことからも証明されている。まあ道長が先頭に立って剛腕を奮ったというのではなく、いかにも当時の貴族社会らしく、回りにジワジワとシンパを増やして回りから盛り立てられる形で権力を握ったというのは考えられるが、ある意味でそれは余計にタチが悪い(笑)。

 

 忙しい方のための今回の要点

・藤原道長の父の兼家は娘の詮子が円融天皇の皇子の懐仁親王(後の一条天皇)を出産したことで出世、道長も公卿に出世することになる。
・疫病で朝廷内でも多くの死者が出た後、朝廷を仕切れるのは兼家の道隆は息子の伊周と道長だけになる。詮子の推薦で道長は内覧という重職に就くが、伊周と対立することになる。
・伊周が花山法皇従者二名を殺害する乱闘事件を起こして左遷、その間に道長は自分の娘の彰子を一条天皇の后にする。彰子が一条天皇の寵愛を受けるように紫式部などを彰子に仕えさせた結果、一条天皇は度々彰子の元を訪れるようになり、ついに彰子は皇子を出産する。
・しかし一条天皇の次に即位した三条天皇は道長を敵視し対立することになる。道長は三条天皇の元にも娘を后として送るが、三条天皇は別の后を立てて対立する。結局は道長は三条天皇に退位を迫ることになる。
・三条天皇の退位後は彰子の生んだ後一条天皇が即位、道長は後一条天皇の元にも娘を入内させ、これで三皇に渡って外戚となる。道長が望月の歌を詠んだとされるのはこの時である。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・とにかくどんな人にも二面性はあるので、道長もその手の二面性はあったには違いないですが、やっぱりある程度の謀略は駆使した人物であるのは間違いないでしょう。そうでないとこの時代に生き残れません。

前回の英雄たちの選択

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