教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/5 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「比叡山延暦寺を開いた僧 最澄」

天台宗の祖・最澄

 日本仏教界に大きな影響を与えた天台宗の祖・最澄。同時代の空海と比べるとどうも地味な印象もある最澄であるが、その最澄の生涯を紹介する。なお空海の方は既に以前にこの番組で扱われています。そして最澄の方は昨年に大河ドラマ絡みでヒストリアに少し登場してます。

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一般民衆を救おうと修行に励む中、桓武天皇に取り立てられる

 最澄は若い頃から優秀であり、具足戒を授かって僧となった後も仏教界でのエリート街道を歩むことが期待されたという。しかし最澄は突然に比叡山に籠もってしまう。それは最澄が天台宗に出会ったことが大きいという。天台宗は大乗仏教の立場でありながら、小乗仏教も取り込んですべての人が救われるという法華一乗の思想に基づいていた。当時の奈良の仏教は国家仏教であり、国家鎮護を目的とするものであったのに対し、最澄は天台の教えによって一般民衆を広く救済したいと考えるようになっていたのだという。

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最澄

 そんな最澄に注目したのが桓武天皇であった。奈良の仏教勢力の政治への介入を嫌った桓武天皇は長岡京に遷都するが、それを主導した藤原種継が暗殺され、それに関与したとして早良親王が淡路に流れて憤死するなどがあった挙げ句に、桓武天皇の近親者が次々と亡くなり疫病も流行、さらには洪水が発生するなど不吉なことが連続したことから、桓武天皇は平安京に遷都する。そうしたことにより、平安京にとって鬼門の方向に当たる比叡山に籠もる最澄のことが聞こえてきたのだという。奈良から離れて新たな仏教を求めていた桓武天皇は最澄に目をかけて重用する。こうして最澄は桓武天皇の側近となる。

 

唐に渡って天台宗を学んで帰国する

 そんな中で最澄は唐に渡って天台宗を学びたいと訴える。天台宗を学んだ僧侶は日本にはおらず、最澄は鑑真が持ち込んだ書によって天台宗を独学したのだった。だから唐へ留学してさらに天台宗を深く学びたいと考えたのである。最澄の望みを聞き入れた桓武天皇は20年ぶりに遣唐使を派遣することを決定し、最澄を国費留学生である還学生として唐に派遣する。なお送られた僧侶には私費留学生である留学生もいるのであるが、この一人が空海であった。

 唐に到着した最澄は天台山を訪れて天台宗の高僧である道𨗉の教えを受け、さらに行満という天台宗の僧侶からも教えを受けると共に文献を与えられる。半年にわたって天台宗を学んだ最澄だが、帰国の準備にまだ時間がかかることから越州の龍興寺に出向いて、当時唐で流行していた最新の仏教である密教を1ヶ月ほど学ぶ。そして帰国する。

 帰国した最澄は正式に天台宗を開くことを朝廷に認められる。毎年僧侶として認められるのは10人と定められていたのだが、この枠が2名増員され、それが天台宗にあてられることとなった。

 

空海から密教を学ぼうとするが・・・

 しかしその頃に桓武天皇が病気でこの世を去ってしまう。強力な支援者を失ったことで奈良の仏教勢力が天台宗を声高に批判し始める。しかし最澄はかまわずに修行に励んでいた。しかし最澄には密教をもっと学びたいという願望があった。そんな時、唐で密教を納めた空海が帰国してきていることを知る。本来空海は20年間唐で滞在することを義務づけられていたのであるが、勝手に短縮して2年で帰国していたのである。これは本来は重罪であった。しかし最澄の取りなしで空海は都に上京出来るようになる。そして最澄はこの空海に弟子入りを志願するのである。

 空海から密教の経典を借りて密教を学んでいた最澄であるが、やがて空海との間にズレが出てくる。密教は本来は実体験を重視する仏教であり、経典の学習だけではどうしても無理があったのである。やがて空海は最澄に経典を貸し出すのを拒絶するようになる。本来は最澄が空海の元で修行出来ればよかったのであるが、天台宗の責任者として多忙な最澄にはそれは不可能なことであった。最澄は弟子を代わりに送って空海の元で修行させるが、その弟子が最澄の元を去って空海の元に行ったことで両者の決裂が決定的になる。

 

仏教制度の改革に挑んだ晩年

 晩年の最澄は仏教制度の改革に挑む。彼はすべての人間が仏になれる素質があると主張していたが、これに対して奈良の仏教勢力はこれを否定して対立していた。最澄は49才で全国を回ると天台宗の拠点を各地に作る。すべての人を天台宗で救うには自らと志を同じくする多くの僧が必要であった。当時は正式な僧侶になるには全国3カ所の戒壇院で具足戒を受ける必要があった。しかし具足戒は250項目から厳しい戒律であり、修行僧のためのものであった。最澄はそれに対して一般の人でも守れる10の重い戒律と48の軽い戒律からなる円頓戒を認めることと、それを比叡山で授けることを認めて欲しいと朝廷に願い出る。そして最澄は自らの具足戒を捨ててしまう。しかしこのことは奈良の仏教勢力を激怒させることであった。

 しかし最澄はそれにひるまず、さらに僧侶の育成制度も提案する。それは12年間の修行を僧侶に課し、その結果から理論と実践力に優れる物は国宝として比叡山で教育に当たらせ、理論に優れるが実践力に欠けるものは国師、実践力に優れるが理論に欠けるものは国用として地方での布教に従事させ、彼には国から支払われる供養料で世の中の役に立つ事業を行わせることにした。最澄は何度もこれを朝廷に願い出るが、奈良の仏教勢力を気にする嵯峨天皇はなかなか認めなかった。そして最澄は57才で亡くなる。最澄の申し出を認める勅許が出たのは最澄が亡くなる直前であったという話があるという。そして最澄の死後に比叡山の寺院は延暦寺と名付けられ、その後の仏教に大きな影響力を持つことになる。

 

 以上、天台宗の祖である最澄について。どうも空海との諍いが注目されることが多いですが、あれについては空海にしたら密教の奥義をすべて最澄に授けてしまったら、自らの独自性がなくなって、当時既に大勢力の一つであった天台宗に負けてしまうというベンチャー企業的な事情が一番強かったような気がします。最澄はどうも真面目な人だったようですが、空海はもっとプロデューサー肌だったようなので、常に演出を考えいた節があります。当然経営感覚も強いので、既存の仏教がひしめく中でいかにして自らの独自性を貫くかの戦略は絶対に持っていたはずである。

 こうして最澄がすべて人を救うべく作った延暦寺ですが、時代が下るとこの延暦寺自体が権威となってしまって、既得権益の象徴となってしまうというのは大きな皮肉である。このようなことを見ていると、いくら崇高な理念を持って作り上げた組織でも、年月が経つと絶対に腐敗するということを痛感せずにはいられないのである。

 

忙しい方のための今回の要点

・奈良で仏教のエリートコースを歩むことを期待された最澄だが、天台宗に出会ったことですべての人々を救う仏教を目指して比叡山に籠もって修行することになる。
・その最澄の噂が奈良の仏教勢力の影響力を排除するために平安京に遷都した桓武天皇の耳に入る。新しい仏教を求めていた桓武天皇は最澄を重用することになる。
・天台宗を文献から独学していた最澄は、唐で天台宗について学びたいと桓武天皇に願い出て、国費留学生として遣唐使で唐に渡る。そこで天台宗について体系的に学ぶと共に、当時最新の仏教であった密教についても学んで戻ってくる。
・帰国後、天台宗は正式に新たな仏教として承認されるが、最澄の後ろ盾であった桓武天皇が亡くなることで奈良の仏教勢力からの批判を浴びることになる。
・そんな中で最澄は密教についてもっと学びたいという望みを持っていた。その時に空海が唐で密教の奥義を学んで帰国したという話を聞いて彼に弟子入りを志願する。
・空海から密教の経典を借りて学んでいた最澄であるが、密教は実体験を重視することから経典だけでの勉強には問題があると考える空海と考えがすれ違うことになる。そして最澄の元から空海の元に密教を学ぶために送られた弟子が最澄の元を去ってしまったことで、両者の決裂は決定的となる。
・晩年の最澄は、天台の教えを全国に広げるために自らと考えを同じくする僧を多く生む必要性を感じ、僧侶の認定制度の変革を朝廷に願い出る。奈良の仏教勢力の反対でなかなか実現しなかったのであるが、最澄のなくなる直前にようやく認められる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・超人伝説が多くてスター性のある空海に比べると、どうしても最澄は地味な印象が否定出来ないです。天台宗の方も、超能力全開の真言密教に比べるとどうしても普通の仏教で地味なところがありますし。とりあえず最澄と言えばどうしても「地味」という言葉がつきまとってしまう。

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