お家騒動の発端
今回は江戸時代の世の中を騒がせたお家騒動である伊達騒動について。有数の外様の大藩の騒動だけに世の中が騒然として、これをモチーフにした演劇なども登場。近年でも「樅ノ木は残った」などの作品が知られている。
伊達騒動といっても実は3期に渡って発生しており(どれだけ内部がまとまってないんだ)、その中でも第2期の寛文事件が最大のものであり、一般的に伊達騒動といえばこれを指すという。
この騒動のそもそものキッカケは、3代藩主の伊達綱宗が21才の若さで隠居したことにあると言う。綱宗は酒が好きだったのだが、いわゆる酒乱であり酔っては家臣に斬りつけるなどの乱暴狼藉も多かったらしい(10代から飲酒を始めたことで、見事なアル中になってしまったんだろう)。見かねた父の忠宗が綱宗に対して「断酒しないと勘当にする」と申しつけたらしい。さすがにこれで綱宗も父が存命のうちは酒を断ったのだが、その父が亡くなると再び酒浸りになる。さらに綱宗は遊郭通いも大好きで、仙台藩が幕府から普請役を命じられた時も現場視察を口実にして吉原に入り浸っていたという。綱宗が巨額の金で高尾大夫を身請けしたが、彼女が他に好きな男がいたことから激怒して切り捨てたなんていう話も伝わっているが、さすがにこれは創作だろうとのこと。
幕府の介入で幼い藩主が就任するが
もっとも幕府から命じられた普請役の最中に吉原に入り浸るというのは、戦をないがしろにして酒色にふけっているのと同じで、幕府に知れると責任問題となって改易ものである。そこで叔父の伊達宗勝が伊達家の親族だった大名と相談して、幕府に綱宗の隠居と嫡子への家督相続を願い出る。幕府に処罰される前に先手を打ったのだという。そして綱宗は21才で強制隠居させられる。そして2才の嫡子の亀千代が4代藩主として就任、宗勝と亀千代の叔父の田村宗良が後見人を務めることになる。しかし宗勝は政宗の10男であるのに対し、宗良は政宗の孫ということで立場は弱い上に、宗良は温和であまり前面に出る性格でなかったことから宗勝が実権を握ることになる。そして目付に自分の息のかかったものを起用し、彼らに藩士たちを統制する権力を与える。こうして宗勝の専横が始まる。
この宗勝に対して2代藩主忠宗の側近だった里見重勝が宗勝が依怙贔屓している上に、藩の金を横流ししているなどと批判する。これに対して宗勝は激怒して里見を死罪にしようとする。これは宗良が反対したために実現できなかったが、この後に重勝が亡くなった際に嫡子による相続を認めず、里見家を断絶に追い込む(何とも陰険である)。宗勝は自らの意に従わない藩士を次々と粛正し、その数は100人を超えたという。
その宗勝の専横に荷担したのが奉行の原田宗輔。彼は宗勝の顔色を窺い、ひたすら彼の意に従うことを最優先にしたという。奉行の一人である古内義如は「贔屓が強くて立身出世を望む、宗勝が重用する目付衆の言うことは筋が通らないことでも同調する」と原田のことを語っているという。原田は粗忽な行いも多く、トラブルメーカーでもあったという。
藩内で不満が高まり、ついに行動を起こすものが
当然のように宗勝への家中の反感は募る。ここで伊達家一門で涌谷伊達家の伊達宗重が登場する。彼は伊達宗倫と境界問題で争い、藩に裁定を委ねることになる。この時に宗倫に有利な裁定が下り、これは宗倫が宗勝の甥であったことが働いたのではという。もっともこの裁定自体には宗重も従ったのだが、境界確定に訪れた検分役人(宗勝の配下である)の態度が悪すぎると仙台藩の家老に訴える書状を送る。これに対して原田の返答が「少々のことは許すように」とのことで、これに激怒した宗重は宗勝と田原宗良の両後見人に直接訴えるが完全に無視される。そこで宗重はとうとう幕府の国目付に訴える。ここで宗重は境界問題だけでなく、宗勝の専横についても合わせて訴える。幕府の手によって藩政を正すことを考えたのである。
これに対して幕府は江戸に上って直接に訴えることを求める。これによって仙台から宗重、奉行の柴田、原田が召喚されて取り調べられることになる。まずは宗重が事情聴取され、それで検分役人たちの処分は大体見えてくる。そこで宗重は次に宗勝の悪行を老中に書面で訴える。宗重は原田も宗勝に荷担していることを訴え、さらに宗勝によって重罰に処された120人の名簿を老中に提出する。仙台藩の混乱は既に老中の耳にも届いており、そのことから宗重の訴えは取り上げられる。そして老中・板倉重矩の屋敷で柴田と原田が審問を受けることになる。しかし供述に食い違いがあったために急遽もう一人の奉行である古内義如が呼び寄せられる。そして4人の審問が板倉の屋敷で行われることになったのだが、当日になって4人は急遽審問の場所が大老・酒井忠清の屋敷に変わったと告げられる。慌てて4人が酒井の屋敷に駆けつけると、既に大老・酒井の他に4人すべての老中、さらに大目付なども揃って待ち構えていた。
審問で追い詰められた原田が刃傷に及ぶ
そして宗重、柴田、原田、古市の順で審問を受けることになるのだが、ここで審問から戻ってきた原田がいきなり宗重に斬りつけるという事件が発生する。宗重は応戦するが、深手を負って絶命、原田が控え室を出て老中のいる部屋に刀を抜いたまま走って行ったことに驚いた柴田が追いかけて斬り合いになる。そして駆けつけた酒井家の家臣は混乱して原田だけでなく柴田までも斬ってしまう。これで原田は即死、柴田もその日のうちに死亡したという。原田が刃傷事件を起こした理由であるが、原田は審問で証言に窮するのに対し、他のメンバーの供述は一致していたことで原田が段々と追い詰められていたのだという。そして破れかぶれになった原田が、きっかけとなった宗重に斬りかかったのだろうという。
なおこの事件は幕府の陰謀だったという説が後に唱えられたという。黒幕は酒井忠清で、有力な外様大名である仙台藩を分割して弱体化させるというのが目的だったという説である。しかし実際には酒井は事件後に仙台藩を存続させるために奔走しており、仙台藩にとってはむしろ酒井は藩が存続できることになった功労者であるという。だから酒井黒幕説は荒唐無稽であるという。
結局この事件の結末は、宗勝は騒動の責任で土佐藩に流され、身内も他藩にお預けとなった。宗勝は土佐で8年後に59才で亡くなったという。刃傷事件を起こした原田は一族の男子はすべて切腹か斬首になり、原田家は断絶となったという。宗重は藩主のことを思ってのこととしてお咎めなし(まあ当たり前だ)、藩主の亀千代も事件の際に13才と年齢が若かったのでお咎めなしだったという。元服して綱基と名乗ることになった亀千代は後見人はおかずに、宇和島藩の伊達家と親族大名である立花家とよく相談して政を進めるように指示されたという。
忙しい方のための今回の要点
・江戸時代最大のお家騒動と言われる伊達騒動の発端は、3代藩主の綱宗が酒色にふけって政をないがしろにしたとして隠居させられたことに始まる。
・嫡子の亀千代が2才で藩主となり、一族の伊達宗勝と田村宗良が後見人となったが、宗勝が政宗の息子で立場が強かったことから、仙台藩は宗勝が専横を極めるようになる。
・反対派は粛清され、宗勝の独裁となり依怙贔屓などが横行する。またこの宗勝に同調したのが奉行の原田宗輔で、仙台藩内部は混乱することになる。
・そんな中で行動を起こしたのが一族である伊達宗重。彼は領地の境界争いの件から端を発して、家中の腐敗に憤り、ついには幕府に宗勝の専横を訴える。
・仙台藩の混乱は老中にも伝わっていたことから宗重らが呼び寄せられて大老・酒井の屋敷で審問が始まる。しかし審問において追い詰められていった原田が、控え室で宗重に斬りつけるという刃傷事件が発生、宗重は死亡し、原田も奉行の柴田と斬り合いになり、混乱の中で二人とも酒井家の家臣に斬られて死亡する。
・結局は宗勝は土佐藩に流され、原田は一族の男子がすべて切腹か斬首となってお家断絶する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・何か良く分からないところのある事件でもありますが、結局は追い詰められた原田がやけくそになって錯乱したってことになりますか。恐らくかなりビビリの小心者だったんだろうな。典型的な虎の威を借る狐タイプの人物だったと推測できる。
次回のにっぽん!歴史鑑定
前回のにっぽん!歴史鑑定