教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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4/20 BSプレミアム 英雄たちの選択 「古代日本のプランナー・藤原不比等」

渡来人の元で唐の文化について学ぶ

 今回の主人公は藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等。彼は単に藤原氏の地位を固めただけでなく、古代日本のグランドデザインをも作り上げた人物であるという。

 藤原不比等は乙巳の変で中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討った中臣鎌足(後に藤原鎌足)の次男として659年に生まれた。鎌足は不比等を柏原一帯を本拠とする田辺史(たなべのふひと)一族に与えてその教育を託す。田辺史一族は百済から渡来した一族で、卓越した行政能力で朝廷に仕えていた。不比等はそこで徹底した唐などの学問を身につける。ちなみに不比等の名はこの田辺史から取っているのだという。

 

 

持統天皇に取り立てられて大宝律令制定を行う

 天智天皇が崩御して壬申の乱が起こると、大友皇子に荷担していた田辺史一族や中臣一族は冷遇されることになる。そんな不比等を取り立ててくれたのが天武天皇の后で後の持統天皇である。不比等は官僚としての能力の高さを買われたのだという。持統天皇が即位すると31才の不比等は判事に抜擢される。判事は法令全般に携わる要職で、不比等は律令の作成に取りかかることになる。唐と対峙するには日本独自の法律を確立するのは必須であった。こうして大宝律令が制定される。ここで皇位継承についての嫡男が継承する制度が定められ、皇位継承の混乱を防ぐことが考えられていた。また日本独自の制度として新天皇に皇位を譲った先の天皇が太上天皇として天皇と同等の権力を有することを定めた。これによって天皇が自ら後継者を指名して譲位することがしやすくなるし、独裁が馴染まない日本にはこの方が都合が良かったのだという。

 わざわざこのような制度を作ったのは、当時の朝廷の状況が反映しているという。それは持統天皇と天武天皇の息子である草壁皇子は若くして亡くなったため、持統天皇はその子の軽皇子を後継者にすることを考えていた。しかしまだ若い軽皇子には持統天皇の後見が不可欠であった。そして697年、軽皇子は15才で即位して文武天皇となる。この年、不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせて天皇の外戚という地位を得ている。この頃から不比等という表記が登場するようになったという。つまり並びなき者になったのである。

 

 

日本書紀に込められた不比等の意図

 さらに不比等は歴史書である日本書紀の編纂を開始する。これは日本の歴史がハッキリしていなかったら、歴史を重視する唐と対等に渡り合うことが不可能だったからだという(自らの歴史さえハッキリしない国は野蛮国扱いになる)。ここに天照大神が孫を地上に送りそれが天皇となるという天孫降臨が描かれている。しかし実はここに不比等の目論見が入っているという。

 当初は渡来人が記していた日本書紀だが、不比等が関与した頃から日本人が記すようになっており、ここで編纂方針が変わったことが分かるという。そこを見ていくと持統天皇を天照大神になぞらえる記述が覗えるという。そもそも天照大神が自らの孫を地上に送ったという国作りは、明らかに持統天皇が文武天皇に皇位を譲ったことをなぞらえているという。

 

 

皇位継承の危機に際しての大胆な決断

 不比等の娘の宮子と文武天皇の間に首皇子も生まれ、こうして日本の天皇制は盤石なものとなったはずであった。しかし不比等も予想していなかった事態が発生する。702年に持統太上天皇が58才で崩御すると、その4年後には文武天皇までが病に倒れ、先が長くないことが明らかになるのである。この時、首皇子はまだ7才。この時点で即位は不可能であった。

 ここで不比等の選択である。1つは天武天皇の孫の長屋王の即位を推すという選択。長屋王には次女を嫁がせているので不比等にとっては無縁の人物ではない。ただ長屋王の後に首皇子に皇位を継がせることを約束させても、それが守られる保証はない。もう1つはあくまで中継ぎとして文武天皇の母である阿閉皇女の即位を推すという選択。ただ天皇の母が皇位に就くというのは前代未聞である。

 この選択についてだが、番組ゲストは阿閉皇女で満場一致。結局は長屋王に渡したらもう皇位は戻ってこないだろうということであり、実際に不比等もこちらを選んだ。で、ここで干された長屋王は、その怨念で1300年後に自らの屋敷跡に建ったイトーヨーカ堂奈良店を閉店に追い込むのである・・・。

 こうして阿閉皇女が天皇に即位することになるが、多くの貴族はそれに不満を感じていた。そこで不比等が考えた仕掛けが即位の詔に仕組まれる。それは「不改常典」という言葉である。これは天智天皇が作ったルールで、皇位継承は天皇の意志に従うべきものというものである。しかし実は「不改常典」など誰もそれまでに聞いたことのないものだし、実際に文武天皇が阿閉皇女の即位を望んだかなんて誰も知らなかった。しかし要は「堂々と言い切ってしまえばこっちの勝ち」という不比等の大胆な手である。天智天皇の定めた掟となると誰も逆らえず、阿閉皇女は元明天皇として即位する。なおこれ以降「不改常典」はそれ以降の天皇の即位では必ず読まれることになったという。そして724年に25才となった首皇子が聖武天皇として即位する。しかしその4年前に不比等はこの世を去っていた。しかし不比等は聖武天皇のために平城京を残していた。ここで聖武天皇が座って即位することは天皇中心の時代の到来を告げるものであったという。

 

 

 非常に優れた官僚であったようだが、なかなかハッタリなども上手かったようである。結局はそのハッタリの最たるものである「不改常典」が後の基本となってしまったというのだから、何と言うべきか。

 なお不比等はあくまで家臣として天皇を盛り立てる位置に徹し、自らが天皇に取って代わろうとしなかったというのもポイントだという。確かにそれをやっていたらどこかで滅んだ可能性は高い。結局はこの天皇を支えながらも実権を得ていくという方法は、その後の藤原氏の基本となる。もう既に不比等が天皇と姻戚関係を次々と結んでおり、後の摂関政治の原型はこの時に登場していることになる。

 それにしても日本創世神話はかなり突飛な印象を持っていたが、不比等が持統太上天皇をもちあげるためにでっち上げたものだったか。なんかそう言われると非常に腑に落ちる。常に正史というのはその時の権力者にとって都合が良いように書かれるものであるので、やはり日本書紀を読む時にはこの時代の背景について考慮する必要がかなりあるようである。まあハッキリ言って日本書紀に書いてある古代史なんてインチキなのは、詳細に検討するまでもないが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・後の藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は藤原鎌足の次男であり、渡来人の田辺史一族の元で唐の学問などを学んだ。
・壬申の乱が発生すると、大友皇子に荷担した田辺史一族や中臣一族は冷遇されるが、その不比等を取り立てたのが持統天皇であった。
・持統天皇が即位すると、不比等は法を司る判事に任じられ、大宝律令を制定することになる。ここで日本独自の太上天皇制を定め、持統天皇が孫の文武天皇に皇位を譲ってから後見できるようにする。
・また唐と渡り合うには日本の歴史書が必要であることから日本書紀の編纂を進める。ここには不比等の作為がかなり入っており、天照大神の天孫降臨のエピソードはまさに持統太上天皇を天照大神になぞらえているという。
・不比等の娘と文武天皇の間に首皇子が生まれて体勢は万全と思われたが、持統太上天皇が亡くなり、間もなく文武天皇も亡くなるという不測の事態が発生する。ここで不比等は文武天皇の母の阿閉皇女をつなぎの天皇として即位させることで、首皇子が聖武天皇として即位するまでの間をつなぐ。
・阿閉皇女の即位に不満を持つ貴族たちを抑えるために不比等が仕込んだのが「不改常典」。つまり次期天皇は天皇の意志で決めるというのは天智天皇が定めたルールであるという話だが、実のところはこれはハッタリでもあった。
・不比等は平城京を建造すると聖武天皇の即位を見ることもなくこの世を去る。しかし彼が定めた天皇中心の体制が古代日本のグランドデザインとなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局は有能な役人はハッタリも説得力があるってことか。番組ゲストも不比等の強みとして、とにかく説得力があるということをあげていたが、こういうことなんだな。

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