教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/11 NHK 歴史探偵「比叡山延暦寺」

延暦寺の歴史

 今回のテーマは比叡山延暦寺。京都の東の比叡山山頂にある大伽藍が延暦寺である。この延暦寺がどうやって繁栄してきたのか、さらには信長による焼き討ちなどの危機からどうやって立ち直ったのかを紹介。

延暦寺の開祖・最澄

 

 

万人を救う教えに至った最澄

 比叡山は多くの僧侶が修行した有名な寺院であるが、そもそもこの寺院を最初に建立したのは最澄である。最澄が重視したのは法華経の教えだが、そこには一仏乗という言葉が記してあり、それは仏の大きな乗り物に乗るように誰でも成仏できるという教えだという。今では当たり前のように思われている思想だが、実はこれが当時では画期的だったのだという。

 当時の仏教はそもそも国家守護が目的であって、さらには救われるには厳しい修行を行って悟りを開く必要があった。そのような仏教を「誰でも救われるもの」として、さらには庶民にまで仏教の信仰を広げる元となったのが最澄である。

 人々が当時の社会状況に疑問を感じた最澄は、仏教のあるべき姿を求めて20才から1人で比叡山に籠もって修行を続けたという。そして法華経の真髄を求めて12年間山を降りずに修行に励んだという。その時に彼が比叡山に築いた小さなお堂が延暦寺の最初だという。やがて彼の元には多くの弟子が集まるようになる。

 

 

法華経の総本山としての繁栄の礎を築く

 当時は正式な僧侶になるには戒という規律を寺から与えられる必要があるが、それが出来るのは国が認めた3つの寺だけだったという。比叡山からは正式な僧侶を輩出できなかったことから、最澄は比叡山でも戒を与えられるように国に働きかけると共に戒のシステム自身も変更しようとしたという。当時は出家して世俗を捨てないと戒を得られなかったので、それを出家の必要がないようにしようとしたのだという。

 最澄のこの考えには奈良の僧侶達は猛反発した。それに対して最澄は次々と反論を提出して朝廷とも交渉を行った。その結果、延暦寺でも授戒が出来るようになる。ただし延暦寺から最初の正式な僧侶が誕生したのは最澄が57才で亡くなった後のことだという。

 ちなみに延暦寺にはこの最澄が使用していた法灯が不滅の法灯として伝えられている。この法灯は1200年以上経った今でも伝えられて守られているという。

 

 

繁栄したことで堕落し、信長の焼き討ちで壊滅する

 平安時代後期から鎌倉時代にもなると、社会不安の増大と共に庶民の仏教信仰も高まるようになる。するとそれに応じて延暦寺の規模も拡大するようになっていったという。最盛期には3000人もの僧侶が存在したという。彼らがそれぞれ使用人や弟子や従者を抱えていたりするので、その人口は膨大だったという。

 そして人数が増えるとそれだけで内部で分派が発生したり、さらには堕落する者も出てくる。中には徒党を組んで強盗を働くような僧侶まで登場したという。また神輿を担いでの強訴なども相次いだ。延暦寺は武力を持ち、さらには強力な経済力までもを有した。延暦寺はいわゆる金貸しを行ってそれで富を蓄積していた。鎌倉時代には京都の金融関係者の8割が延暦寺の関係者であったという。

 その延暦寺を焼き討ちしたのが信長である。そしてこの時に最澄から伝えられていた不滅の法灯が消えてしまうという事件が発生する。信長の死後、権力を握った秀吉は朝廷との関係を強化するために朝廷の守護寺院である延暦寺の復興を実施することになる。しかしその時に問題となったのは失った不滅の法灯であった。

 

 

延暦寺を救った山形の立石寺

 この時に大きな役割を果たしたのが山形の立石寺だという。実はこの立石寺では創建時に延暦寺から譲り受けた不滅の法灯が伝わっていた。しかも実はこの立石寺の法灯は焼き討ちの50年前に山形の戦乱で立石寺が破壊された時に消えてしまったのだという。その時に円海という若い僧侶が延暦寺から法灯を分けてもらうために奔走したのだという。地元の領主に資金援助を依頼するなど苦闘の末に円海は延暦寺から法灯を分けてもらって持ち帰ったのだという。

 その記録が延暦寺にも残っていた。そこで法灯復活のために立石寺に声をかけることになったのだという。そして延暦寺からのその要請を受けたのが立石寺で老僧となっていた円海だという。そして72才の円海は自ら延暦寺に法灯を運んだのだという。こうして延暦寺の法灯は復活する。

 

 

 と言うわけで、今回も延暦寺をキーワードにしたオムニバス。最初の最澄の生涯と延暦寺の建立についてはあまりにかっ飛びなので、詳細がサッパリ分からなかった感がある。最澄については以前に「にっぽん!歴史鑑定」で詳しくやっているので、最澄について知りたければそれで補った方が良さそう。

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 また平安時代から戦国時代にかけての延暦寺の繁栄(と堕落)に信長の焼き討ちの経緯についてもあまりにもザクッとした説明。これらは最澄から信長の焼き討ちに至るまでの経緯を、以前にヒストリアで放送しているのでそちらを見た方が良い。

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 なお今回のこの番組は、このかつてヒストリアで放送した内容に、立石寺との件を加えて、さして意味のない延暦寺と立石寺の訪問レポートを加えて内容を薄めただけとということになる。この辺りの番組としての内容の薄さが今やこの番組の最大の特徴になってしまっているという体たらく。

 なんか長年続いたガッテンが、いきなり後継番組も存在しない状態でいきなり打ち切られてしまったが、この番組もまともな後継を作らないままいきなり打ち切られる可能性もあるのではと言うのが、昨今の番組のレベル低下が全く止まらないNHKの現状を考えた場合にあり得る最悪のシナリオ。正直ヒストリアからこの番組に変わってから、佐藤二朗のうざさが増しただけで、番組から得られる情報自体は陳腐で面白くなくなってるんだな。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・最澄が唱えた「誰でも救われる」という考えは、奈良時代の仏教からすると斬新であった。当時の仏教は救われるには厳しい修行が必要という考えが主流だったが、最澄は比叡山に籠もって人々を救うための法華経の教えを研究し、その考えに至る。
・最澄の元にはやがて多くの弟子が訪れるようになり、それが延暦寺の元になっていく。当時は正式な僧になるためには日本に3箇所だけの寺院で戒を授かる必要があったが、最澄は比叡山で戒を授けることが可能となるように朝廷に働きかけてそれを実現する。
・法華経の総本山となった比叡山は多くの僧が修行するようになって発展する。平安後期には3000人もの僧がおり、それらの使用人や弟子などを含めて1万人の人口を抱えるようになる。
・しかしそうなると堕落も始まる。中には徒党を組んで強盗を働く僧まで出てくる。また神輿を担いでの強訴など無法行為が増える。さらに金貸しをすることで財力を蓄える。結果として比叡山は武士に匹敵するような武力も有することになる。
・その比叡山を焼き討ちしたのが信長である。この時に最澄以来引き継がれていた不滅の法灯も消えてしまう。
・信長の次に権力者となった秀吉は、朝廷との関係を考えて延暦寺の復興を許可する。しかし復興に当たって不滅の法灯の消失が問題となる。
・その時、以前に不滅の法灯を分け与えた山形の立石寺の存在が浮上する。そして立石寺の円海が自ら法灯を持参したことで延暦寺の不滅の法灯が復活する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・で、現代の延暦寺ですが、私には高野山と同様に非常に商業的になっていることを感じましたね。確かに未だに修行の場ではあるのでしょうが、その一方で明らかに観光産業の場という空気も強かったです。まあ今時の寺院は大抵はそうですが。

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