教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/22 BSプレミアム 英雄たちの選択「激突!三好長慶vs足利将軍~室町幕府"終わりの始まり"~」

最初の天下人・三好長慶

 どうもここのところ大河関連の内容が多くなっていたこの番組だが、今回は大河は大河でも2年前の「麒麟がくる」の内容である。あれに登場した足利義輝と三好長慶の争いの発端と顛末について。三好長慶であるが、近年になってとみに注目されている武将であり、信長に先駆けての最初の天下人という評価も出てきている。

 ちなみに三好長慶についても、足利義輝についても以前にヒストリアで扱われているので、内容的には被る点はある。

三好長慶はこの回

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ちなみに足利義輝も扱っている

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この番組にも三好長慶は登場

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父の敵を取ろうとした結果、将軍と対立することに

 長慶は細川家家臣の三好家の嫡男として阿波で生まれるが、11才の時に父の元長が主君の細川晴元に謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれる。若くして三好家の家督を継いだ長慶は、家の存続のために父の敵である細川晴元に仕え続けることを余儀なくされる。

 18才で今の西宮にある越水城の主となった長慶は、三好家立て直しと父の敵討ちのための準備に取りかかる。父の死に伴って多くの家臣を失っていたことから、まずは身分に捕らわれない大胆な人材登用を行う。土豪の出身の松永久秀などがこの時に採用されている。また本興寺を保護してその末寺のネットワークを使用して東アジア貿易のルートを確保する。この交易によって鉄砲などを入手する。

 そして1549年、ついに細川の拠点である江口に攻撃をかけて大勝利を収める。劣勢になった晴元は京都を脱出するが、この時に14才の将軍義輝をつれて逃亡する。将軍家は細川晴元と連携していたので当然と言える行動ではあったが、結果として長慶は将軍義輝と対立することになってしまい、それがその後の長い抗争につながる。

 

 

執拗に長慶暗殺を目論む義輝と和睦することになるが・・・

 義輝は九条家の血を引く、今までの将軍の中ではもっとも高貴な血筋になり、周囲の幕府再建への期待も大きく、また本人もそのことを十分に自覚していた。だが都を追われた翌年には父の義晴が無念を抱えたまま病死、義輝は三好への徹底抗戦を誓う。だが独自の兵力を有していない義輝は長慶暗殺を試みて刺客を仕向けることになる。何度か暗殺計画が実行され、長慶の義父が殺害されるなどが発生するが、長慶は辛うじて逃れていた。この殺伐とした状況に憂いた六角氏が両者の和睦を仲介することになる。これを受けて長慶は義輝との和睦を決断する。

 ここで長慶が出した条件は義輝の帰京は認めるが、細川晴元を幕政から排除することと、自身が将軍の直臣となることであった。この時点での長慶は混乱の火種であった細川家の分裂争いを解消し、三好家が将軍を支えていくという考えがあったという。

 京に戻った義輝は長尾景虎、尼子晴久、朝倉義景など地方で台頭してきた勢力に栄典を授与して味方に取り込もうとする。しかし彼らは下克上で台頭してきた者達であり、これは将軍自ら下克上にお墨付きを与えるような矛盾した状況になってしまう(それまでの身分秩序を否定することは、幕府の存在意義さえも否定することにつながりかねない)。

 こうして一旦は和睦した両者であるが、長慶の力が増すと共にそれを良く思わない反三好派が義輝に接近する。その中には返り咲きを目論む細川晴元もいた。そして1553年、義輝は晴元と共に挙兵して京の霊山城に立て籠もる。そして長慶攻撃を諸勢力に呼びかける。長慶もこれに対して挙兵、2万5千の大軍で霊山城を包囲する。これに対して義輝に対して援軍を送る勢力は全くなかった。それどころか大軍に怯えた細川晴元が逃亡、孤立無援となった義輝は再び近江に落ち延びることを余儀なくされる。

 

 

将軍不在のまま自ら政務を執ることを決意する長慶

 再び将軍不在となった京で長慶の選択である。まずは義輝に代わる将軍として新たな将軍として義輝の叔父である義維を立てるという選択である。しかし義維を敵視する勢力も多く、六角や畠山が敵対することは必至であった。二つめの選択は将軍を立てずに自身が政権を握るというものである。しかし三好にそれだけの権威があるかどうか。

 これについては番組ゲストは長慶が自ら政権を握るの一択。磯田氏のみが、とりあえず将軍を立てておいて、ある程度実権を掌握した段階で傀儡将軍を廃するという考えを披露していた。完全に将軍を廃するには時期尚早なので、一段階置くという考えである。

 長慶の選択であるが、自ら政権を握るという方法を選択する。長慶は芥川城に本拠地を移すと、城下の水争いに近臣を派遣して直接に採決を下すなど公平な調停者として振る舞う。さらには外交においても武家の代表として天皇と共に使節に会見するなど天下人として振る舞うようになる。

 一方の追放された義輝は積極的に各大名間の和睦調停を仲立ちして、地方勢力との結びつきを強める。その甲斐あって宗教勢力の本願寺を味方につけて長慶と対抗できる陣容が整ってくる。

 

 

改元事件を発端に再度の和睦を余儀なくされ、立て直しの最中に死去する

 そんな時に決定的な事件が発生する。1558年に即位した正親町天皇が「永禄」に改元を行う。改元は武家代表の将軍が資金負担などを行いながら天皇と共に改元するのが通例であったのだが、正親町天皇は長慶と共に改元を行う。これに対して義輝は反発、以前の元号である弘治を使用し続けて長慶への抵抗を訴える。そして京を奪還するために挙兵する。これに対して毛利が義輝支持を表明、さらに各地で反三好勢力が浮上する。三好政権の基盤の弱さを痛感した長慶は、1558年に義輝と二度目の和睦という苦渋の決断を迫られる。

 しかし長慶はまだ諦めていたわけではなかった。総石垣作りの飯盛城をこの時期に建造している。これは信長にも先駆けた日本で初の本格的な石垣作りの大規模城郭であった。難攻不落であると共に長慶の権威を見せつけるものであった。またここに源氏の氏神を祀って源氏の末裔として足利氏に劣らないものであることを訴えようとしていたという。そして積極的な対外戦争をしかけ、その支配領域は13カ国にも及ぶようになる。

 だがここで不幸が襲う。三好家を支えた二人の弟が死去、さらに嫡男も急死、そしてついには自らも43才で病死してしまう。なお義輝もその翌年に三好家の軍勢に襲撃されて殺害されることになる。こうして時代は信長の台頭につながることになる。

 

 

 以上、少し早すぎた天下人三好長慶の話。また足利義輝が変にやる気のある将軍だったのも悲劇の元。あれが単純に三好の傀儡で甘んじるような人物だったら、お互いに悲劇にはつながらなかったのだろうが。もっとも三好長慶も43才で病死するというのは想定外だったろう。謀反で殺された信長でさえ50才近くまで生きてたんだから。三好長慶がもっと頑張っていたら信長の出番はなかったかもしれない。磯田氏は室町幕府滅亡は信長による東側からの一撃の前に、三好長慶による西からの一撃がかなり効いていたと評していたが、その通りだろう。また室町と戦国が相克した結果、相打ちに近い形で辛うじて室町が僅差の勝利を収めた最後が三好長慶だったのかもしれない。

 最近になって三好長慶は信長の教科書だったのではという話も出ているが、アジア貿易などで経済力をつけて、鉄砲を輸入、さらには状況に合わせて居城を転々とさせ、石垣を採用した築城など、確かに信長が長慶に倣ったのではと思われる点は多い。これについて、磯田氏が堺黒幕説的なものを上げており、海外とも通じていた堺を支配下に治めることで堺の考えに染まったのではというようなことを言っていたが、それは一説ありそうである。なお秀吉の晩年には中国支配まで睨んで、堺よりも博多を重視する方向性が出て来ていたので、利休切腹もその流れの中での話という説もある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・三好長慶は細川家の家臣であった三好家の嫡男として生まれるが、11才の時に父が細川晴元に謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれる。
・復讐の機会を覗いつつ積極的な人材登用や交易で力をつけた長慶は、1549年についに細川晴元に勝利するが、この際に晴元が京から将軍義輝をつれて逃亡したことで、長慶と義輝が対立することになる。
・三好討伐を目論む義輝は刺客を送り込んで長慶の暗殺を目論む。そのような事態を憂いた六角氏が両者の和睦を仲介、長慶は細川晴元の排除と自身が将軍の直臣になることを条件にそれを受諾する。
・京に戻った義輝は長尾景虎ら地方で台頭する勢力に栄転を授与して味方に取り込もうとする。また義輝の回りには返り咲きを目論む細川晴元が接近、結局は晴元共に反三好で挙兵することになる。
・長慶はこれに対して大軍で挙兵、義輝は頼みの援軍もなく、挙げ句に晴元が逃亡してしまったことで自身も近江に落ち延びることを余儀なくされる。
・将軍不在の京では、長慶が自ら政権を取ることを決意。芥川城を築いて、自ら領国の統治のみならず、将軍の管轄事項だった外交なども執り行う。
・しかし将軍を無視して改元を実施したことで義輝やそれに味方する勢力と敵対。自らの政権基盤の弱さを痛感した長慶は義輝との和睦を余儀なくされる。
・だが長慶は総石垣作りの居城飯盛城を建造し、さらに対外戦争で積極的に領土を拡大して三好家の勢力の強化を図る。
・しかしその途上、弟や嫡男の死に相次いで自身も43才で病死してしまう。なおその翌年に義輝は三好一族に襲撃されて殺害される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・三好長慶を見ていると、天下取るには能力もさることながら、やはり運の要素は大きいということをつくづく感じる。三好長慶は実力的には良い線を行っていたが、最後の最後で運がなくて失敗したというように思える。

前回の英雄たちの選択

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