教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

6/27 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「家康のブレーン!青い目のサムライ・三浦按針」

青い目のサムライ・三浦按針

 今回は徳川家康の外交顧問として活躍した三浦按針ことウィリアム・アダムスについて。なお彼については以前に英雄たちの選択で登場しており、また彼が活躍した時代の日本を取り巻く状況についてはNHKスペシャルで解説されている。

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アジア航路の交易のために日本にたどり着くが

 アダムスは1564年にイギリスの港町ジリンガムで生まれる。高貴な身分の生まれではないが、当時の識字率が低いイギリスの中で彼は読み書きが出来たことから、それなりの教育を受ける機会には恵まれたと思われる。12才で腕利きの船大工に弟子入りし、24才で独り立ちする。しかしここで彼は船大工の仕事を捨てて海軍に入隊する。当時のイギリスは無敵艦隊を抱える大国スペインと対立していた時期であり、若きアダムスも愛国心を刺激されたのだろうという。なおこの両国の対立にはプロテスタントカトリックの宗教対立があるという。

 しかしイギリスがスペインの無敵艦隊を破って勝利すると、急募で増加していたイギリス艦隊は本隊を除いて解散してしまい、やむなくアダムスはイギリスとモロッコの貿易を行うバーバリー商会に就職して貿易船の船乗りになる。なおバーバリー商会には海賊という側面もあり、スペインなどの商船を襲撃することもあったという。この時期にアダムスは結婚して一男一女を儲けている。

 しかしアダムスが33才の時にバーバリー商会が解散、失業したアダムスはオランダが開拓したアジア航路で自らの能力を生かしたいと考え、オランダの貿易会社がアジア遠征を企画していることを聞いたアダムスはこれに志願する。

 総勢500人が5隻の船に分かれて出発したアジア遠征だが、これが散々な目に遭う。太平洋経由でアジアを目指すつもりだが、壊血病で多くの船員が命を落とし、嵐で他の船が脱落して、リーフデ号だけが豊臣政権下の臼杵に到着する。この時に生き残っていた船員は24人だという。全員弱り切っていて、臼杵の民衆が積み荷を盗みに船に乗り込んできても全く抵抗できない状態だったという。翌日には臼杵の役人が乗り込んで調査を始めるが、そもそもリーフデ号は交易船でありながら、大砲など多くの武器が搭載してあり、このことに臼杵城主の太田一吉は疑問を感じる。これは実はリーフデ号はスペイン船などに対しては海賊行為を働くことで旅費を稼ぐことを考えていたからだという。太田は長崎代官の寺沢広高に報告書を提出、アダムス達は処遇が定まるまでそのままということになった。この時にイエズス会の宣教師たちが、彼らは海賊だから処刑するべきだと太田に訴える。背後にはカトリックのスペインと、プロテスタントのオランダの対立があった。オランダが日本との交易に参加することによってポルトガル(この時にはスペインと合併している)の権益が侵害されることを警戒しているのは明らかであった。

 

 

家康によって重用されることに

 結局アダムスの処分は、当時秀吉亡き後の豊臣政権でもっとも力を持っていた家康に預けられることになる。家康は主立った船員2人で大阪に来るように命じる。そしてアダムスとオランダ人商人のヤン・ヨーステンが出向くことにする。そして家康と対面した彼らに対して家康はヨーロッパの事情や彼らの目的などを次々と聞き出し、その尋問は夜中にまで及んだという。家康はアダムス達に非常に興味を持っていた。翌日も家康は数回にわたってアダムス達を質問攻めにしたという。家康の元には宣教師たちから彼らを死刑にするべきという訴えが届いていたが、家康はその理由がないと拒絶していたという。

 そして41日後に3度目の謁見があると、家康は彼らを堺で仲間と再会させ、さらに船内でのアダムス達の所持品が盗難に遭っていたことに対する賠償として8億円相当の金銭を与える。家康はポルトガルと他の国を競争させることで輸入品の価格が低下することなどを期待してアダムス達を仲介者にするつもりだったのだろうという。またアダムス達を通して武器を入手することも考えており、実際に大坂の陣で使用された武器はアダムスが輸入したという。

 リーフデ号と船員達はその後、相模の浦賀に移動、リーフデ号の武器を会津討伐で使うつもりだったのではとされている。しかし会津討伐は中止になったことで、アダムス達はそのまま2年ほど放置されることになる(家康は関ヶ原合戦の対処などで忙殺されていた)。この間にアダムスは日本語を習得する。

 

 

家康のブレーンとなって旗本に取り立てられる

 政局が落ち着くと家康はアダムスを呼び出し、小型船の製造を依頼する。そしてアダムスは伊東で現地の船大工と共に西洋船を建造する。家康は日本の船大工に西洋の技術を伝えることを目論んでいたという。家康はこれに満足してアダムスに対して今後側近として自分のそばにいるように命じる。こうしてアダムスは家康のブレーンとなる。そしてアダムスは武家の娘を嫁に迎えて娘が生まれる。

 この後、アダムスは家康の命によりさらに大きな船を建造すると、周辺を調査して海図の作成も行う。アダムスの功に対して家康はアダムスを旗本に取り立てて、三浦半島に250石の所領を与える。この時からアダムスは三浦按針(按針とは航海士の意味らしい)と呼ばれるようになる。

 家康の外交顧問となったアダムスは、家康がスペインの鉱山技術の提供の見返りにキリスト教布教の許可と江戸湾測量の許可を与えようとした時には、スペインが江戸湾を測量する目的はいずれ大艦隊を率いて侵略するためだと反対する。納得しない家康に対して、スペインは日本人をキリスト教に改宗させて、その後にキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが彼らの策略であると訴える。アダムスの必死の訴えに心を動かされた家康は、スペインとの外交に消極的になり、さらに翌年に直轄地でのキリスト教禁止令を発布する。この時にアダムスが諫めていなかったら、日本もインカ帝国のようにスペインの植民地にされた可能性はあると言う。

 

 

結局は本国に帰国することなく日本で亡くなる

 その一方でアダムスは本国には日本との交易を進めるように手紙を書いていたという。そして1613年にイギリス船クローブ号が来港してイギリスとの交易が開始される。イギリス船の来港に帰国したという気持ちが湧き上がったアダムスは、次に家康から呼び出された時にそのことを訴える。以前にはアダムスの帰国には許可を出さなかった家康だが、この時はアダムスの功に報いるためとしてこれを許す。

 しかし結局アダムスは帰国しなかった。それはクローブ号の総司令官のジョン・セーリスとアダムスが非常に不仲だったことと、アダムスは帰国すると今までの殿様からただの航海士になってしまうために、その後の生活を考えてもう少しお金を蓄えておきたいと考えたことによるという。またここで帰国しないでも、今後イギリスと交易することになるのならいつでも帰国できると考えたのだろうという。平戸のイギリス商館で働き始めたアダムスは琉球やタイにまで自ら足を運んで交易を行なう。ここで家康からもう一度戻ってこないかと誘いが来るが、これをアダムスは丁重に辞退する。しかしこれが二人の最後の対面となる。

 家康が亡くなって秀忠の時代となると、これがアダムスの運命を一変させる。秀忠は外交面ではそれまでの家康の積極姿勢を改めて、京都・大阪・堺で外国人が日本人に商品を売ることを禁止、外国人の居留地を平戸と長崎に限定し、外国船の入港も平戸と長崎だけに限定した。納得いかないアダムスは幕府の高官に訴えるが全く相手にされず、秀忠とは対面さえ実現することがなかった。そして外交担当から外されてしまう。失意のアダムスは帰国の機会も得られぬまま、平戸で家康の死の4年後に56才でこの世を去る。なお遺産は4000万円ほどで、半分を日本の子供たちに、半分をイギリスの妻子に与えたという。この後、日本は鎖国への道を走ることになる。

 

 

 青い目のサムライ三浦按針ことウィリアム・アダムスの物語。家康としてはアダムスが有する知識や技術をふんだんに吸収して利用したわけだが、その後も再び側に置こうとしたということは、彼とは気が合ったということだろう。またアダムスの方も初めて自分を高く買って徴用してくれる上司に出会ったことから、いざ本国に帰ろうとした時に迷いが出たのだろうことは想像に難くない。

 しかし家康の死によって状況は一変。内部をまとめることを最重視する秀忠は鎖国の方向に突っ走ることに。秀忠の思想というのはかなり内向的なので、こういう方向になるのはまあ想像はつく。これが結果的に正解だった失敗だったかはその後の歴史を見ても明確ではないのであるが。この時に秀忠が家康路線を継承していたら、日本は貿易立国として東南アジアなどに進出して、日本商人が現在の華僑の位置にいる可能性があるが、どこかの時点でスペインと全面対決になった可能性もある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・イギリス人のウィリアム・アダムスは、オランダのアジア遠征に参加するが、嵐や病気などのために臼杵に到着した時には散々な状況であった。
・臼杵に到着した彼らを、プロテスタント国のイギリスやオランダと対立していたカトリックの宣教師たちは、海賊として処刑することを訴える。しかし家康がアダムス達に価値を見出して重用することになる。
・家康はポルトガルが独占した貿易に対して、イギリスやオランダを参入させることで輸入品の価格が低下することを目論んでいたという。
・アダムスの知識に意義を感じた家康は、アダムズに西洋船の建造を命じ、日本の船大工に西洋の造船技術を学ばせる。
・これに満足した家康はアダムスを旗本として取り立てて、三浦に250石の領地を与える。この時から彼は三浦按針と呼ばれることになる。
・家康の外交顧問となったアダムスは、スペインが江戸湾の測量の許可を求めた時に、これは侵略の意図があると家康に告げ、キリスト教徒を日本に増やして、彼らと共に国を乗っ取るのがスペインの目的であると主張する。やがて家康はキリスト教禁止に動くことになる。
・一方でイギリスが日本との交易に乗り出すように働きかけたアダムスは、イギリスからクローブ号が到着した時に、家康に帰国の許可を願い出て許される。しかしクローブ号の総司令官のジョン・セーリストと相性が悪かったことや、帰国後の生活の不安などから結局は帰国を断念して、平戸の商館で働き始める。
・しかし家康の死後、秀忠の治世となると外国人全般に対する不審感の強い秀忠によって交易は大きく制限されることになる。アダムスはこれに抗議するが、秀忠と対面することさえ叶わず、アダムスは家康の死の4年後に平戸で亡くなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・日本が海外進出を続けていたらどうなるかなんてのも、ifネタとしては面白いんですよね。ちなみに私は霧隠才蔵として転生した最強賢者が、幸村と共に家康をぶっ倒し、豊臣政権の元で海外進出を行い、日本に対して侵略の魔の手を伸ばしてくるスペインと全面対決するなんて転生架空歴史物なんてネタも考えていたりしますが(笑)。

 ここにチラッと与太話として掲載してます

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