教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/10 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「古代日本最大の危機!白村江の戦い」

古代日本の対外戦争

 今回のテーマは倭国が百済を救援するべく唐・新羅の連合軍と戦って惨敗した白村江の戦いについて。この戦いがどのような経緯で勃発し、どのような経過を辿って後にどのような影響を与えたかである。

 乙巳の変によって主導権を握り、中央集権体制を確立しつつあった中大兄皇子だが、その時に国難が海外から押し寄せることになる。

中大兄皇子(天智天皇)

 元々は百済が高句麗と結んで新羅を圧迫していたのだが、それに危機を感じた新羅は唐に救援を仰ぎ、高句麗を支配下に収めることを目論んでいた唐は、まず新羅と組んで百済を攻撃する。この戦いで百済は660年に滅亡する。この数ヶ月後に百済から倭国に救援要請が届く。援軍要請をしたのは百済の将軍であった鬼室福信である。百済では遺臣たちが抵抗運動を繰り広げていたので、それを支援して欲しいとの要請で、さらに倭国にいた百済の皇子である余豊璋の召喚も求める。百済にいた王族達は根こそぎ唐に連れて行かれたことから、旗頭として余豊璋を利用することを考えたのだという。

 

 

百済救援のために兵を送ることを決める

 この要請を受けるかどうかを中大兄皇子は悩むが、倭国は百済と友好関係を結んでいたことから斉明天皇は出兵を決断、中大兄皇子もそれに賛成する。また唐の介入がなく百済が優勢との情報も後押しをする。また百済王冊封することによって朝鮮半島での倭国の影響力を強めるという思惑もあったという。

 そして661年に斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足らが兵を集めつつ北九州に向かう。しかしここで斉明天皇が突然亡くなってしまう。そこで中大兄皇子は大王に即位するのではなく称制として戦いを指揮することになる。

 倭国は百済救援のために3度に渡り4万2千の兵を百済に送る。第一陣は5000の兵が余豊璋と共に百済に渡る。余豊璋は鬼室福信と合流して百済王に立てられる。百済復興軍は鬼室福信の指揮の下で優勢に戦いを進める。しかし余豊璋が鬼室福信と対立して、処刑してしまうという大事件が発生する(アホか?)。本拠地移動に失敗してその責任の押し付け合いになったらしい。当然のようにこれで百済軍は一気に弱体化し、戦況は唐・新羅連合軍有利に傾いてしまう。

 

 

さらに兵を送り込むものの、白村江の戦いで完膚なきまで敗北

 連合軍劣勢の報を聞いた中大兄皇子は直ちに第二陣の2万7千を派兵、さらに第三陣として1万を送る。百済の本拠は包囲されており、唐の船団が倭国軍の船団を待ち構えていた。唐の軍船は170艘に兵は7000、これに対して倭国軍軍船400艘に兵は1万と優位にあった。しかしこれで倭国軍が大敗してしまうのである。その敗因は海上戦は想定外だったために強引に中央突破を目論むなど戦術的に稚拙であったという。豪族の寄せ集めという弱点が出たという。見事に連携して挟み撃ちの戦術をとる唐軍の前に倭国軍はあえなく破られたという。また唐の軍船は数が少ないとは言え戦闘用の楼船であるのに対し、倭国の船は輸送用の小舟であり、上から矢を射かけられて一方的にやられたという。

 この敗戦を見た余豊璋は高句麗に亡命、百済復興の夢はあえなく消滅する。そして倭国は唐・新羅連合軍の攻撃にさらされる危険に直面することになる。この事態に中大兄皇子は各地に唐・新羅連合軍の攻撃に備えた軍事拠点を建設する。特に太宰府には大野城や水城などの防衛網を整備する。さらに対馬や壱岐には防人を配備した。さらに瀬戸内海沿いにも山城を配置して軍事拠点とし、周囲の徴兵も強化する。さらに都を海沿いの難波宮から内陸の近江大津の宮に移す。

古代山城の一つ、岡山の鬼ノ城

 だが結局は唐・新羅の倭国侵攻はなかった。それは高句麗を滅亡させた両国は領土を巡って対立が強まり、その結果としてどちらも倭国との関係改善を目指すことになり、侵略から免れたのだという。

 白村江の戦いの4年後に中大兄皇子は天智天皇として即位する。そして戸籍を整備して徴兵制を確立する。唐の強力な軍を見ての改革だという。また外敵の存在で求心力が増し、中央集権が進むことにもなったという。

 

 

 と言うわけで惨敗だったのだが、結果としてその敗戦から学んだ中大兄皇子がその後の改革に弾みをかけることになったということである。とは言うものの、無謀な朝鮮半島での戦いに手を出したのは、中大兄皇子としては若気の至りだったのではという気もする。

 倭国は結局は唐に攻められることはなかったのだが、実際に唐がそのつもりだったとしても、現実には倭国に侵攻することは難しかったろう。この時代よりも遥かに下って航海技術も上がっていたはずの元でさえ、日本侵攻は大失敗したのである。もし唐が強引に日本に大軍を送ったところで、遠征側の方が補給線の長さなどでジリ貧になって敗北するのは目に見えている。

 まあ中大兄皇子もそのぐらいのことは想像ついていたと思われるので、実際は各地の山城の建設は、唐からの侵攻を口実にして各地の豪族の締め付けにかかったとの解釈もある。私も現実にはその方が可能性が高いのではないかと感じている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・唐・新羅の連合軍に攻められて660年に百済は滅亡するが、抵抗運動を続けていた百済の将軍の鬼室福信から援軍派遣の要請と、倭国にいる余豊璋の召喚を依頼される。
・斉明天皇は百済とのこれまで関係などから援軍派遣を受諾、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足らと共に兵を集めつつ北九州に移動するが、ここで突然に亡くなってしまう。
・後を引き継ぐことになった中大兄皇子が称制として軍を差配することになり、百済にまず1万の軍勢を送る。
・当初は倭国と百済の連合軍が優勢に戦いを進めていたが、余豊璋と鬼室福信が対立、余豊璋が鬼室福信を処刑するに及んで百済軍が一気に弱体化、情勢は連合軍が不利になってくる。
・中大兄皇子はここで第二陣として2万7千の兵を送り、さらに救援のために第三陣の400艘、1万人の船団を送る。しかしこの船団が、海上で包囲していた唐軍の170艘、7000の兵団に完膚なきまでに敗北する。
・倭国の敗因は戦術の稚拙さと統制の甘さであり、中央集権の徴兵で集められた統制の取れた唐軍には全く歯が立たなかった。また唐船は数は少なくとも戦闘用の楼船であり、小型の輸送船の倭国艦隊では上から狙い撃ちの状態であった。
・この敗北で唐の侵攻の危機に直面した中大兄皇子は、各地に防御施設を建造すると共に、中央集権を強化する。
・結局は唐の侵攻はなかったが、結果として中大兄皇子の改革には弾みがかかることとなった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・当時の倭国はアジアの軍事強国という位置づけということが言われていたが、結局は進んだ唐軍と戦ったら張り子の虎だったということでもあります。実はこのことの方が中大兄皇子にとっては危機感を抱かせたんではと思いますね。

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