教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/14 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「秀吉VS家康 本当の天下分け目の合戦!小牧・長久手の戦い」

秀吉と家康の最初で最後の直接対決

 天下分け目の戦いと言えば関ヶ原の合戦だが、この時に戦ったのは家康と三成である。実はそれ以前に家康は秀吉とまともに戦ったことが一度だけある。それが小牧・長久手の戦い。実際にここで敗北していたら家康は天下取りどころか滅亡している可能性があった。この「本当の」天下分け目の戦いの顛末は。

 信長の後継者として着々と地位を固めていた羽柴秀吉。それに激怒して宣戦布告したのが信長の次男である信雄。しかし自身の力のみでは到底秀吉に対抗することは不可能。そこで信雄が頼ったのは信長のかつての同盟者であった家康だった。着々と自領を固めて天下争いは一応静観していた家康。その家康がなぜここで信雄を支援することを決意したか。

 まず考えられるのは自衛のためだという。家康領は尾張を支配していた信雄の領地が秀吉に飲み込まれると、次は自身が秀吉の脅威に直面することになる。そのためにその前に信雄と手を組んだという。

 またこの時点で家康に天下取りの野心があり、秀吉に歯止めをかけようという考えがあったのではという。さらには北条との同盟があったことから、その北条と手を組んでいた伊達も背後におり、これらを加えると勝算があるという計算もあったのではという。実際には北条は援軍を送る余裕はなかったが、家康は長曾我部や雑賀衆など反秀吉の勢力と連絡を取っているという。

 

 

小牧山城で睨み合いとなるが

 家康は信雄に秀吉に通じていた信雄の三家老を斬らせると、自身はすぐに浜松城を発って信雄支配下の清州城に入る。そんな時に信雄の元に池田恒興が寝返って犬山城を奪ったの報が届く。犬山城を取られた家康は小牧山城を守るために小牧山城に入る。小牧山城奪取を命じられていた恒興の娘婿の森長可は功を急いで援軍を待たずに単独で出撃、それを察知した家康は酒井忠次と松平家忠を派遣、両軍が森長可の軍を背後から奇襲、長可は敗走することになる。家康は小牧山城の守りを固めると、敗北を知って激怒した秀吉は自ら侵攻する。信雄・家康連合軍1万6千に対し、秀吉軍は10万、数の上では秀吉が圧倒的に有利だった。秀吉も守りを固めて睨みあいになる。

 この膠着状態を打破するべく、娘婿の失態を挽回するために池田恒興が家康の本拠である三河の攻撃を申し出る。秀吉はこれを許す。これは秀吉が彼らを囮にして家康を引っ張り出そうと考えたのではという。この攻撃を聞いた秀吉の甥の三好信吉(後の豊臣秀次)が自分を大将にしてほしいと名乗り出る。秀吉は軍略に長けた堀秀政を軍師に付ける条件でこれを認める。秀吉には甥の信吉に武功を上げさせたい思いもあったのではという。

 

 

三河攻略の策が失敗、結局は引き分けに持ち込むことになる

 こうして森長可、池田恒興、三好信吉の2万の軍勢が深夜に三河に向けて出発する。しかしこれはすぐに家康の諜報網に引っかかる。家康は榊原康政が率いる5000の軍を小幡城に向かわせると、自身も9000の兵を率いて出発する。秀吉の思惑通りにいったというところだが、家康軍の動きは秀吉の予想よりもはるかに早く、秀吉軍が動き出す前に家康は小幡城に到着、池田恒興らの軍勢の動きを察知すると先に攻撃を仕掛ける。池田恒興は岩崎城を攻撃して落城させており、それを聞いた三好信吉は兵に朝食を摂らせていた。家康はここに奇襲をかけ、油断していた信吉軍は壊滅、堀秀政が駆け付けるも敗走、同様に引き返してきた森長可、池田恒興も包囲される。長可が正面突破を図り大乱戦となるが、その乱戦の中で森長可、池田恒興の二人が討ち取られる。家康の情報網が精密であったことと、この時に秀吉軍に黒田官兵衛がいなかったことが勝敗を分けたのではというのが小和田氏の分析。また戦経験のない三好信吉を大将にしたこともあるのではという。

 敗報に激怒した秀吉はすぐに出陣するが、家康は去った後だった。結局は一進一退の攻防が続くことになる。力での勝利は難しいと感じた秀吉は、信雄を講和に引き出すことを考える。信雄の支配する北伊勢に侵攻して信雄を追い詰める。そして信雄は家康に無断で単独講和に応じる。戦の大義名分を失った家康は浜松に引き返す。こうして戦いは局地戦では家康は勝利したが、結果としては引き分けとなる。

 

 

再度の家康攻略を試みるが、地震で頓挫する

 その後、四国や紀州などを平定した秀吉は1585年に関白に就任、家康に上洛して和議を結ぶように要求するが、家康はそれを拒否。秀吉は家康を攻撃するべく大垣城に兵糧を運び込むと家康の重臣である石川数正を寝返らせる。これは家康にとっては危機的状況であった。

 しかしここで予想だにしなかったことが起こる。翌年正月の15日には家康を討つと決意した秀吉だったが、11月29日夜に中部東海の広範囲にマグニチュード8の大地震が発生する。天正大地震である。大阪城に戻って自身は事なきを得た秀吉だったが、そこで大垣城倒壊の報を聞く。前線基地を失った秀吉は家康攻撃を断念せざるをえなくなる。秀吉は家康と和解するために妹と母を人質に送って家康と講和することになるのである。結局はここで秀吉が家康を厚遇せざるをえなくなったことが後の豊臣家滅亡につながることになる。

 

 

 というわけで「本当の」天下分け目だった小牧・長久手の戦いについて。やっぱりここ一番での天正大地震なんかのエピソードを聞けば、やはり家康は運があるとしか言いようがなく、これはやはり天下取りのための必須の要素なんだろうと思われる。実際にこの時に秀吉と家康が正面から激突していたら、独力では対抗は不可能で北条、伊達が家康を支援するのみならず、毛利辺りまで巻き込んで反秀吉包囲網で戦いでもしない限り勝つことは不可能だが、まずそれは無理だろう。

 結局、秀吉はここで家康を滅ぼすことが出来ずに取り込んだが、家康は秀吉存命の間はじっと耐えて、秀吉が亡くなると自分が亡くなるまでの間に天下を取って徳川家の体制を固めてしまったわけである。それを考えると、確かに「ここで家康を滅ぼしいたら」と豊臣家はなるところではある。もっとも豊臣家にも全くチャンスがなかったわけでなく、やっぱり関ヶ原の合戦で三成の構想のように秀頼が西軍で参陣していたら状況は一変したと思うのだが。少なくとも東軍の先鋒の福島正則なんかは完全に崩れるから、徳川の圧勝とは行かなかったはず。まあ歴史のifのネタは尽きない。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・秀吉と家康が唯一直接に対決したのが小牧・長久手の戦いであり、「本当の」天下分け目の戦いという指摘もある。
・小牧・長久手の戦いの発端は、秀吉に圧迫された織田信雄が家康に援軍を求めて挙兵したことである。
・家康が信雄に味方した理由は、秀吉の脅威を感じていたこと、自身も天下取りの野心があったこと、北条氏と同盟していて勝算があったことなどが考えられるという。
・家康は信雄配下の清洲城に入るが、池田恒興が秀吉側に寝返り犬山城が奪取される。そこで慌てて小牧山城に入って防御を固める。
・小牧山城奪取を命じられていた森長可は、援軍を待たずに単独で出撃するが、家康の軍勢によって奇襲されて敗走する。
・秀吉は自ら出陣して小牧山と睨み合いになる。家康側1万6千に対して秀吉側は10万と数の上では秀吉が圧倒的に有利だが、戦線は硬直する。
・池田恒興が戦線硬直の打破及び娘婿の森長可の失態挽回のために三河攻略を願い出る。秀吉はこれを了承し、三好信吉(後の豊臣秀次)を大将にして2万の軍勢を派遣する。
・しかしこれを家康の諜報網が察知、急遽榊原康政が率いる5000の兵を派遣すると共に、自らも9000の兵を率いて出陣する。
・家康軍は完全に油断していた三好信吉の軍を急襲すると壊滅させ、さらに引き返してきた池田恒興と森長可の軍も包囲殲滅、2人は討ち死にする。
・敗報を知った秀吉は激怒して急遽出陣するが、家康は既に去った後であり、再び戦線は硬直する。
・武力での討伐が困難と判断した秀吉は、信雄の北伊勢を攻めて圧力をかけ、信雄と単独講和に持ち込む。戦の大義名分を失った家康は浜松城に引き揚げ、結果としてこの戦いは引き分けとなる。
・紀伊、四国などを平定した秀吉は、家康を討伐するべく大垣城に兵糧を備蓄するが、天正大地震が発生、大垣城が倒壊するに到って計画は頓挫。結局は家康に人質を差し出して講和に持ち込むことになる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・戦に関しては家康に一日の長があったという話。まあ家康の元に鉄壁の統制が取れていた三河武士団と違い、秀吉の配下は寄せ集めという要素があったのは事実だろう。また戦経験のない三好信吉を大将に据えたのはあまりに舐めすぎというところ。
・まあ三好信吉もここでこれだけの惨敗をしなかったら、もしかしたら後の悲惨な運命も少しは変わったかもという気もしないでもない。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work