黄門さまの大プロジェクト
今回の主人公は水戸黄門こと徳川光圀について。この手の歴史番組では「全国漫遊しなかった黄門様の実像」というネタは非常に多く、既に何度も放送されている。今回もその一環で光圀が手掛けた国史編纂プロジェクトに焦点を当てるというもの。
藩の改革に挑んだ合理主義者
光圀は幼いころから武芸の鍛錬に身を入れ、いわゆる武士の気風の強い人物であったという。しかし時代は既に幕府の元で平安な時代を迎えつつあった。
父の跡を継いで水戸藩の藩主となった光圀は、直ちに殉死を禁ずるなど合理的な人物であったという。また藩内の寺院の整理も行い、堕落した寺院などは破却することで財政負担の軽減などの改革も行ったという。この合理主義は幕府を相手に回してもひるむ所もなく、幕府の禁教令などお構いなしに海外からの事物なども積極的に取り入れた。さらに生類憐みの令に公然と反発したのは有名で、狩りなども普通に続けたという。武人としての気風と合理主義の発現である。
また幕府が巨大船の建造を禁じていた中で、蝦夷地の探検を目論んで巨大船の建造まで行ったという。悪天候や松前藩の反発など様々な障害があったが、それらにも挫折せずについには蝦夷地への探検を実行し、北方の産物などを持ち帰ったという。希代の行動力の持ち主であった。もっともここまで大胆なことができたのも、家康の孫という特別な立場があってのことだという。やはり家康の直系というブランドはこの時代に強かったという。
将来の指針としての歴史書の編纂を目指す
そんな光圀が目指したのは国史の編纂であった。当時の日本には日本書紀や古事記以降の歴史を記した文書は存在しなかった。光圀は歴史を記録することで過去の善悪を明らかにし、それを将来の指針にすることを考えたのである。当時幕府は林羅山に歴史書の編纂を命じていた。これは年代ごとに出来事をまとめる編年体タイプのものであったが、光圀はそれを良しと考えていなかった。光圀が考えていたのは、中国の史記のように紀伝体で人物ごとにまとめた人の歴史を未来に残そうと考えていた。
しかし膨大な作業を要するために水戸藩独自の取り組みはなかなか進まなかった。そこに明暦の大火が発生する。江戸市街の6割を焼き尽くし死者10万人余りの大参事である。これで幕府の書庫も全焼し、林羅山が国史編纂のために集めた史料がことごとく焼失、林羅山はこのショックで命を落としたと言われる。
光圀はこの事態にグズグズしてはいられないと事業を加速させる。江戸藩邸内に国史編纂のための史局を設置して事業に乗り出す。調査員を全国の寺社に派遣して一次資料の収集を開始する。中には貴重な史料を見せることを渋る寺院などもあったが、光圀は自ら感謝状をしたためてお礼の品などを届けさせた。家康の孫という立場の光圀が自ら働きかけることで、貴重な一次資料の掘り起こしが進むことになる。こうして集めた史料は国史編纂に使用されたが、ここで出典を掲載して誰でも辿れるようにするという今日にも通じる方法を使用している。
予算の問題に直面しての光圀の決断
しかしこれらの史料調査は想定以上の出費を必要とした。こうした費用は水戸藩の財政によって賄われることになったが、天候不順などのせいで年貢などもピークを迎えることになってしまう。光圀は藩に倹約令を出すが焼け石に水、借金が増大して危機的状況になる。こうしてプロジェクトX頓挫の危機である。今後この事業をどうするかの光圀の選択である。事業を一時縮小するか、それともむしろ事業を拡大して一気に進めるか。
ゲストの意見は分かれたが、磯田氏が「情報収集及び人材育成の意味でも進めるべき」と言っていたのが印象的。なお私の見解は「クラウドファンディングで予算を集める(笑)」。水戸藩だけの事業ではなく広く協力を求めて、もっと幅広い支援を集めるという手はなかったかと言うところ。まあ藩自体が実質的な独立国だった時代には難しいかもしれないが。
そして光圀の選択だが、事業を拡大するであった。史局員の数を増やして完成へとひた走ったのだという。それだけかけても将来のために必要な事業であると光圀は確信していたということである。翌年に本紀が完成して骨格が見えてくる。そして光圀がなくなったはその3年後、光圀の意志はその後も引き継がれるが、光圀の死の8年後に我慢の限界に達した農民が大一揆を起こす(そりゃそうだ)。それでも中断期間はありながらも事業は継続され、大日本史が完成したのは1906年(明治39年)である。日本歴史学にとって貴重な資料であるが、結局はそこに流れる思想が尊王攘夷に結びついて、やがては討幕につながってしまったのは歴史の皮肉でもある。
以上、光圀の大事業について。まあ光圀としては強固な信念を持っての事業だったのだが、元々豊かとは言い難かった水戸の領民にとっては良い迷惑だったのも事実だろうな。光圀というカリスマが健在のうちはなんとか抑えが効いたが、その光圀が亡くなるとついには抑えが効かなくなったってことだろう。まあ「米百俵の精神」なんて言うが、現実にはそんなものは貧困でも餓死の恐れはないある程度の上流階級でこそ言えるものであり、目前の餓死に瀕している庶民からしたら「そんな未来のことよりもとりあえず今日を生きるのが無理なんだが」になっちまうのはある種の当たり前である。
それと大日本史には皇室を重視する尊皇思想が貫かれているので、それが日本伝統重視から海外からの文化流入排除に結びついて、結局は尊王攘夷テロにつながっちまったってのはまあありがち。国粋主義って裏を返せば対外排斥だから。皇室を尊びながら海外の文化受け入れに抵抗の無かった光圀の方が珍しい人物と言うことで。
忙しい方のための今回の要点
・水戸藩主となった光圀は、鎖国体制下で海外の事物に興味を示すなど好奇心の強い人物であった。
・また幕府の生類憐れみの令を批判したり、巨大船建造の禁令に反して巨大船を建造して蝦夷地の探検隊を送り込むなど反骨精神と合理主義に満ちた人であった。
・その光圀が将来の指針として作成に取り組んだのが歴史書の編纂であった。幕府が進めていた編年体のものではなく、紀伝体によるものの作成を目指した。
・林羅山が中心となっていた幕府による歴史書作制は、明暦の大火による資料焼失(それにショックを受けての林羅山の死亡)によって頓挫、光圀は自身の歴史書作成により力を入れる。
・しかし資料の収集などに巨額の費用を要し、水戸藩の財政は圧迫されることになり事業存続の判断に迫られることになる。
・それでも光圀は事業の拡大を決定し、歴史書の作制はその後も水戸藩に伝えられていくこととなる。ただしの負担に耐えかねた農民の一揆も発生している。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・大事業であるが、それだけに領民にとってはとんだ迷惑だったところもあるだろうな。本来は国家事業で行うべき事だったんだが、それを良しとしなかったのはやはり光圀の反骨精神だろう。恐らく幕府主導でやれば幕府にとって好都合な史観にされるのが嫌だったんだろうけど。
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