教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/24 NHK 歴史探偵「徳川御三家」

徳川御三家について紹介

 今回は家康が江戸幕府を支えるためのシステムとして確立した御三家について注目する。

 そもそも御三家は徳川の本家が絶えた時に代わりの将軍を立てるという使命があった。御三家の祖はいずれも家康の子であるが、家康の晩年の子なので秀忠とは年齢が20才ほど離れており、むしろ家光と年齢が近かったという。

家光と御三家当主との関係はいろいろと微妙だった模様

 

 

家光と対抗心の強かった尾張の義直

 尾張の祖は義直であるが、義直は家康に愛されており、17才の時に天下普請で建造された名古屋城を与えられている。さらには清洲の町を城下町に移転させたという。そのために徳川家を背負うという意識があり、甥である家光に対しての対抗心が非常に強かったという。義直は東海道の要衝に城のような壮大な御殿を海上に築き、その威光を全国に示したという。

初代尾張藩主の義直

 しかしこれは幕府に対する挑発行為のようなものであり、幕府から警告を受ける。しかし義直はそれを無視して領内の城の改築などを行ったという。これ対して家光は自身の病気で義直が駆けつけた時、面会を許さずに追い返したという。義直は大恥をかかされたのであるが、これで義直は家光との関係修復を図るようになった。そこで家光が京への上洛中に名古屋に立ち寄ることになった時、家光のために大改築を行った絢爛豪華な本丸御殿で家光をもてなしたという。

 なおその一方で家康が清洲城を訪れた時の部屋を移築しており、家康との思い出を見せつけるようなものもしかけてあるとのこと。どうも完全に対抗心を捨てたわけではなさそうである。

 

 

武に傾倒した紀州の頼宣

 紀州の祖は頼宣である。彼は紀州に東照宮を建てているが、そこには鷹の彫り物があるように、彼は鷹狩りをするなど武に強く傾倒していた人物であったという。彼は大坂の陣の際に14才で家康から贈られた鎧を纏って初陣を飾るが、自ら先陣を願って部下達に諫められたという。天下太平になってからも地元の牢人を大量に召し抱え、海に大量の船を浮かべてクジラ取りを行うなど軍事教練に力を入れていたという。これは家光の懸念を招く。そんな時に明からの援軍要請があり家光は利がないと黙殺していたが、戦に期待する牢人たちは頼宣の元に集まってくることになったという。

武に傾倒した紀州の頼宣

 ただし頼宣は幕府に軍事的に刃向かう意図があったかは疑問だという。紀州は昔から雑賀衆などの小軍事勢力が割拠していた地であり、これらを治めるためには自身も軍事力を有する必要があったのではないかとしている。また頼宣はミカンの栽培を進めて特産化するなど、軍事一辺倒の人物でもなかったという。

 

 

家光に信頼された水戸の頼房

 水戸藩の祖の頼房は家光とももっとも年齢が近く、家光にとっては兄弟同然という関係にあったという。水戸藩は尾張などに比べると石高は半分ほどで力的には一段下であり、家光にとっても警戒の必要がない相手ということがあったという。家光は水戸藩邸を度々訪れて庭園の造営などにも関与したという。さらに家光は水戸城の石垣改築まで言いだしたという。それによって頼房の権威を高めようと考えたのだろうという。しかし頼房にしたらこれは費用も要するしありがた迷惑だっただろうとのこと。

家光に信頼された水戸の頼房

 頼房の意図とは別に石垣化計画は進行したらしく、沼津にはそれのための石切場の跡が残っているという。しかし石の水運のルートである那珂川が難所であり、それが原因で行き詰まったのではないかと推測されるとのこと。なお御三家というシステムになったのは水戸藩の二代目藩主光圀の時代であり、家光がそこまで水戸藩を引き上げたと言えるという。

 

 

 家光は将軍になる時点でも弟との対立があったりなどで、結構信頼できる腹心に不自由していたんではと言う気がする。そんな家光にとって信頼できるのは異母弟の保科正之と天下を覗う気などない頼房ぐらいだったのかも。結局は水戸藩主は江戸に詰めて将軍を補佐するという体制はこの時代に確立していたようである。

 一方尾張藩は、後々まで将軍家との対立姿勢が消えなかったのだが、既に初代の頃から対抗心満々ってのは、何となく家康の考えも滑ったなという気がしなくもない。結局は尾張藩は幕末には新政府側に荷担しているし・・・。幕末の頃になったら御三家の制度なんて機能してなかったんだよな。そりゃ爺さんの爺さんが従兄弟だったとか程度の関係だったら、実質的に赤の他人だからな。これが血縁に頼った制度の限界。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・幕府を支えるために家康が自身の子を配して作った御三家について。
・尾張藩の祖である義直は、家康に愛されて名古屋城を与えられただけに、徳川を背負っている意識が強く、家光に対する対抗心が強かったという。
・東海道の要衝に豪華な館を建設するなど、幕府への対抗心が露わな義直に対し、家光は自身の病気参りに駆けつけた義直を追い返すことで不快の念を端的に示す。
・さすがに家光との関係改善の必要性を感じた義直は、家光の上洛の際に尾張で豪華な御殿を新築して家光をもてなす。
・紀州の祖の頼宣は武に傾倒しており、泰平の世でも牢人を集めて軍事教練を行うなどで幕府の警戒心を呼ぶ。
・しかし紀州は昔から雑賀衆などの武装小勢力が割拠した地であり、これを治めるに軍事力が必要であり、頼宣としては武の面から幕府を支えている意識があったのではという。
・水戸藩の頼房は家光とも年齢が近く、家光にとっては兄弟同然だったという。
・家格的に尾張や紀州よりも劣る水戸を家光は引き上げるように配慮しており、それによって御三家の制度が成立した。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・御三家について紹介ってことだけど、何かザッと流しただけで結局はこれという話は特になかったような・・・。まあこの番組ではよくあることではあるが。

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