海を使って力をつけた平氏
平安時代の海を制して権力を握り、最後はその海で滅んだ平氏。平氏と海の関わりについて平清盛を中心に紹介するという。
まずは厳島神社を訪問。ここは平清盛が築いたことで有名な水上の社殿であるが、元々は厳島大明神という小さな社殿だったものを、清盛が大規模なものに作り替えたのだという。水上の回廊の床板には隙間が空いているのだが、これは大潮の満潮の時などに水が床板の上に出てくるようにしてるのだとか(そうでないと社殿がつぶれてしまう)。これは海を知り尽くした平氏ならではだという。
この社殿を見たものは平氏の力に圧倒されるのだが、実はこのわずか40年前には平氏は貴族の中でも最下層として馬鹿にされていた。平氏がわずか数十年でここまで躍進出来た秘密は海にあるという。平氏は日宋貿易に目をつけ、瀬戸内海沿岸の国司などを歴任することで制して、宋との交易港であった博多から畿内への海上ルートを確立したのだという。そのルートを使用して辰砂を輸出して中国から白磁などの貴重な品を輸入したのだという。そしてこのような貴重な品を天皇や上皇に献上して出世をして、上級貴族への仲間入りをしたのだという。この頃に築いたのが厳島神社である。実はこの厳島神社の構造は貴族の館である寝殿造りを大規模にしたものであり、これは貴族を圧倒するのに最適なシンボルであったという。
最新兵器で海賊達を制圧した
平氏の瀬戸内支配の前に立ちはだかったのが海賊。今まで誰も取り締まることが出来なった海賊を退治するために、平氏は新兵器として合わせ弓を導入したという。当時の普通の弓は木製だったのに対し、合わせ弓は竹と木を合わせた最新の弓であり、主に都で作られていたので平氏は簡単に大量導入出来るが、海賊には入手が難しかったという。合わせ弓は矢を押し出す力が強いので、飛距離にして木製弓の1.5倍もの差があったという。この強味を活かして平氏は海賊に対して遠矢でアウトレンジ攻撃を行ったのだという。こうして瀬戸内は平氏の海となった。
平氏はこれを陸の戦いでも使用したという。それが平治の乱。源氏は騎馬を使った陸の戦いに長けており、彼らの得意技はいわゆる流鏑馬。騎馬の機動力で一気に接近して至近距離から矢を浴びせて一撃離脱するヒットアンドアウェイ戦法である。これをされると遠矢のメリットが活かせず、平氏は源氏に圧倒されることになる。そこで清盛が取った策は、六波羅に立て籠もった上で周囲に逆茂木や置盾などで騎馬の突進を防ぎ、周囲に建てた矢倉から遠矢を浴びせるという海上戦と同じシチュエーションを作り出したのだという(野戦でなくて攻城戦にしたということだと思うが)。これで平氏は源氏に完全勝利する。
海外貿易で日本を経済的に支配することを目指すが
太政大臣まで登り詰めた後で出家した清盛は、大輪田泊(今の神戸港)を拡張整備して中国との交易港にしようとする。清盛は宋から銅銭を輸入して流通させることで経済を活性化し、その大元を平氏が独占することを目論んでいたという。
しかし大輪田泊は波が荒くてそのままでは中国からの大型船が接岸することが出来ないという問題があった。そこで清盛は経の島という人工島を防波堤として築いたという。この経の島の効果で港の奥は波が穏やかになり、船からの荷物の積み卸しが可能となったという。この後、毎年中国からの大型船が来航するようになり、宋銭が世の中に流通し始める。さらに清盛は福原に都を築いて、日本を海洋国家にしようと計画していた。
だが皮肉なことに、清盛の死後にこの宋銭が平氏滅亡の一因となったという。大飢饉が発生して宋銭を使用しても食糧を購入することが出来なくなってしまったのだという。ここで大量の宋銭を抱えた平氏は兵糧の確保さえままならぬなったろうとのこと。しかし一旦普及した銅銭は平氏滅亡後も使用させることになり、それが日本の経済を変えていくことになったという。
以上、平氏と海の関係について。やっぱり思うのは平清盛って武家の棟梁ではあったが、どちらかと言えば実業家だったのではという印象である。特にその経済政策には目を見張るものがある。結局はこの清盛の開発した大輪田泊がそのまま後の国際貿易港神戸港につながったわけである。武士でありながらこれだけスケールの大きい着眼点を持っていた人物は希有だろう(例えば源頼朝などはあくまでその視点は国内だけを向いている)。どうも清盛が倒れて頼朝が天下を取ったのは、世界に目を向けていた信長が途中で倒れ、結局は国内重視の家康が天下を取ったという流れと共通しているようにも感じる。
忙しい方のための今回の要点
・下級貴族だった平氏が力を持った源は海にあった。
・平氏は中国との交易港である博多から畿内への瀬戸内航路を支配することで経済力をつけ、それを背景にのし上がった。
・平氏がその力の象徴としたのが厳島神社で、その社殿は貴族の寝殿造りを巨大にしたものであると考えられるという。
・平氏が瀬戸内を支配する上で障害となったのが海賊だが、都で最新兵器である合わせ弓を大量に入手することで、射程距離的に圧倒的に有利となり、遠矢で海賊を制圧することが出来た。
・平氏は陸戦では源氏の騎馬による一撃離脱に翻弄されたが、清盛は平治の乱の際、源氏の軍勢を六波羅に誘い込んで、城塞化した六波羅から大量の遠矢を浴びせることで源氏に勝利した。
・太政大臣まで出世した後に出家した清盛は、大輪田泊を中国との国際交易港として整備する。その際に防波堤として経の島を築いている。
・清盛は宋から大量の宋銭を輸入して流通させることで、平氏が経済を支配することを目指していた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・正直、政治家としてのスケールは間違いなく頼朝よりも清盛の方が数段上です。しかし悲しいかな清盛亡き後の平氏には人材がいなかった。期待の長男が先に亡くなってしまって、残った弟連中はぼんくら揃いでしたから・・・。結局は世襲の馬鹿ボンが家をつぶしてしまった。
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