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5/22 歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」

 今回は黒船来航に纏わる日米交渉について。以前は、初めて見た蒸気船に幕府は度肝を抜かれ、あたふたと要求されるままに条約を締結したというように言われていたが、最近の研究ではそうではなく、どっこい幕府側もなかなかしたたかな外交を繰り広げたと言うお話。4/22に歴史科学捜査班でも同様なことを検証していたが、最近のトレンドでもある。

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予測されていたペリー来航

 1853年6月3日、ペリー率いる蒸気船の艦隊が浦賀沖に現れる。全くの不意打ちだったように思われていたが、実はこれは幕府にとってはある程度予測されていたことだという。実際にこの時に浦賀奉行所の使節はペリー達に英語で呼びかけているとのこと。

 ペリー来航の50年前ぐらいから日本近海の各地に外国船が現れるようになっており、また日本はオランダを通して海外の事情もかなり把握していたという。特に1842年に大国である清がイギリスの蒸気船に敗北したという情報は幕府にかなり衝撃を与えており、老中の阿部正弘は対外政策の見直しを検討しており、長崎にいたオランダ語の通訳達に英語を学ばせるなどの準備を進めていたという。今後外国に対してどう対応するかというのは幕府内でも活発に議論されており、開国派、鎖国派など様々な考え方はあったものの、いずれ外国船が日本に貿易を求めてくるだろうという予測は共通しており、その対応策は様々に用意されていたのだとか。

 そしてペリーが日本に向けて出港したのもオランダを通じて情報を把握していたという。阿部にすると清を破った強大なイギリスと避けないといけないなどと考えた時に、適当な交渉相手はアメリカぐらいという目星もあったらしい。だからペリーの来航については「とうとう来たか」ぐらいのもののようだ。

 浦賀の使節は外国船は長崎に回るように告げるが、アメリカ大統領からの国書を持参しているペリーは、この国書を直接に江戸に持参すると主張し、戦争も辞さない覚悟を示す。これに対して幕府の対応は紛糾するが、これに対してペリーは艦隊をさらに北上させるという強攻策をとり、幕府の抗議も聞き入れない。やむなく阿部は浦賀での国書受け取りを決め、ペリーは久里浜に上陸して国書を受け渡し、来年にさらに多数の艦隊を率いて来日するのでその時に返答するように告げて去る。

万全の準備でペリーへの対処を検討

 ペリーが去った後、阿部はお台場の砲台を整備し、蒸気船を購入して長崎海軍伝習所を設置するなどの対応を進める。さらに外交交渉の責任者に外交通で昌平坂学問所の長官であった林大学頭を起用する。林大学頭は今で言うと東大の学長であり官僚でもあったと言える。

 林は武力をちらつかせてくるペリーに対し、知力を駆使した交渉で戦う覚悟を決めていた。ペリー艦隊について分析し、補給のない彼らはその脅しに反して実は戦争を実行することは不可能であるということも見抜いていたという。

 さらにアメリカの国書に対して対応を検討した。アメリカの要求は3点で、漂流民の保護、石炭や燃料の補給、貿易だった。この内の漂流民の保護と燃料や食料の提供は実は既にこの時点で幕府は行っており飲める条件だった。これに対して貿易はまだ国内の反発を招く恐れが高く、現段階で飲めない条件であった。

ペリーの再来港

 そして翌年の正月、ペリーは9隻の大艦隊を率いて江戸近くでの交渉を要求してくる。これに対して幕府は横浜で交渉することにする。ペリーは最初に「我が国は人命を第一にしているが、日本は外国船に砲撃をしている。これを続けるなら戦争をする。」という脅しをかけてくる。これに対して林は全く動じず「それなら戦争も致し方ない」と受ける。続けて「しかし我が国はどこの国よりも人命を重視しており、漂流民に対しても薪や食料を提供しており、貴国に対してもそれを行う」とあっさりと二つの条件を呑んでしまう。いきなり切ったカードが消滅したペリーは大いに気勢を削がれることになる。

 次にペリーは第3の条件である貿易を持ち出してくるが、これに対して林は人命重視を第一とするという方針と無関係の利を求める行為であると矛盾を突く、これに対してペリーは意外にもあっさりと貿易については引き下がる。これは彼が軍人であったために貿易についてはあまり重視していなかったとも言われている。

 9日後の二回目の交渉ではペリーが複数の港の開港を求めたことで紛糾する。やむなく長崎以外にもう一カ所開港すると言った林に対して、ペリーは少なくとも3,4カ所の開港を要求する。これに対して林は国書に具体的地名を記していなかったことを挙げて切り返す。ペリーはそれを認め、7日後に再交渉をすることを約束する。林は江戸に戻ると阿部ら首脳と相談。強行派の徳川斉昭は猛反対するが、阿部は開港に同意、他の大名らも同意する。こうして次の交渉で下田と函館の2港を開港することを提案。江戸から離れた港町を開港することで混乱を防ぐことを考えていた。ペリーもこの提案を飲んで日米和親条約が調印される。

条約調印、そして彼らは

 条約調印後はペリーが幕府の使節を船に招いてのパーティーが行われたという。船員達が演じた喜劇に厳格な林も爆笑の渦に加わったといい、日米の使節は交流を深めたとのこと。ペリーは日本人に対して教育レベルが高くて好奇心が旺盛で、器用なので日本人が西洋の知識を習得したらいずれは強力なライバルとなるだろうと残しているという。

 圧倒的なアメリカの軍事力を前に、日本の外交もどっこいなかなか頑張っていましたというお話。なお4/22の歴史科学捜査班の項でも述べたが、幕府が一方的にアメリカに譲歩されられたかのような話は、やはり明治新政府による幕府に対するネガティブキャンペーンだったような気がする。「こんな無能な幕府に権力は任せられませんから、自分たちが取って代わりました」という。しかし実際には外交能力どころか、内政能力においても明治新政府は徳川幕府よりもかなり劣っており、おかげで明治の出だしはかなり社会があたふたするわけである。そういう点では慶喜が考えていた大政奉還→雄藩連合という政治体制というのは、実はあの時点では本当はベストだったのかもしれないなどと思う今日この頃。

 


忙しい方のための今回の要点

・ペリー来航については実は幕府は事前にかなりの情報を得ており、ある程度の準備をして待ち構えていた。
・老中阿部正弘からペリーとの交渉を任せられた林大学頭は、補給のないペリーが実は戦争を起こすことは不可能であることを見越した上で、したたかな交渉を行った。
・日米和親条約は急激すぎる変化を避けるべき幕府にとっても、ソフトランディングの条件としては妥当な交渉結果であった。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・ペリーがこの時に戦争は出来なかったというのは間違いないですね。補給がないのですから、もし江戸の町を焼き払えたとしてもそこまでです。しかもこの際に日本側の反撃でかなりの被害が出る可能性があった。こうなってしまうとペリーにとってもアメリカにとっても何の利益もありませんから。
・で、このソフトランディングの後のハリスとの日米修好通商条約の方はどうなんでしょうか? あれは結構問題点のある条約のように言われてますが。また交渉相手のハリスはえげつない商売人だったんで、ペリーとの交渉のように単純にはいかなかったと思われますので。