教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/17 BSプレミアム 英雄たちの選択 「小西行長 講和への模索~とめられなかった文禄・慶長の役~」

海軍の将として頭角を顕した小西行長

 今回の主人公は、秀吉の朝鮮出兵で朝鮮や明国との交渉役だった小西行長。どうして小西行長はこの戦いをとめることが出来なかったか。

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宇土城跡に立つ小西行長像

 番組はまずお城クンこと千田氏がハイテンションで名護屋城を回るところから始まっているが、この名護屋城こそは秀吉が朝鮮出兵の拠点として建設した当時日本最大級の巨城である。この巨城には連続外枡形などの当時最先端の仕掛けが施してあり、城下町も形成されて人口は20~30万人にも及んだという。さらに半径3キロ圏内に各地の大名を集め、その陣は150にも及んだという。これらは陣と言っても間に合わせのものでなく、長期滞在を想定して大名の格式に合わせた屋敷をかけた本格的なものであったという。そもそもこの遠征での秀吉の計画は、朝鮮を経由して最終的には明にまで攻め入るというものであった。

 小西行長の巨城は熊本県宇土市の宇土城であった。しかし現在残っている石垣は後にこの地を支配した加藤清正によって新たに築かれたものであるという。行長は最初は宇喜多氏に仕えていたが、宇喜多氏が信長と手を組んだことで中国方面の攻略に乗り出していた秀吉の配下に入ったという。行長は海戦で活躍して秀吉の元で頭角を現す。そして秀吉によって肥後南部を領する大名に抜擢される。

 

朝鮮との交渉を任せられるが決裂する

 秀吉は交渉力に秀でる行長に朝鮮との交渉を任せる。当初の交渉目的は明を攻めるための軍勢を通過させるというものであったが、明を宗主国としてきた朝鮮がそれを受け入れるはずはなかった。朝鮮は協力を正式に拒否、行長は2万からなる第1軍を率いて釜山に上陸する。これが第1次朝鮮出兵・文禄の役である。釜山の攻略はわずか半日で終了したという。鉄砲を装備して戦に長けている日本軍は永らく泰平を維持してきた朝鮮王朝にとっては脅威であった。行長は破竹の勢いで進軍、続いて加藤清正率いる第2軍も上陸して競い合うように朝鮮王朝の首都である漢城(現在のソウル)を目指した。そして行長は上陸から1月足らずで漢城に入城する。ここで行長は朝鮮に対して降伏を勧告する書状を送ろうとするのだが、これが清正の妨害にあう。あくまで秀吉の命に従って武力侵攻の上で明を目指そうと考える清正にとっては、行長の行為は裏切り行為であったのだという。

 結局は清正との対立で朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げる。そこで行長は明に近い平壌まで侵攻して、明と直接交渉を進めようとする。しかしこの頃、明は朝鮮救援のために大軍を編成していた。

 文禄の役では総勢16万の軍勢が海を渡り、朝鮮全土に侵攻した。しかしわずか2ヶ月で各地でのゲリラ戦や李舜臣の水軍による海上補給路の遮断などで戦況は悪化していく。

 

再度明との交渉を実施するが、領土割譲で暗礁に乗り上げる

 そこで行長は諸将と軍議を開いて、年内の明への侵攻は延期することを決定する。しかしその4ヶ月後、明・朝鮮連合軍5万が行長のいる平壌を襲撃する。総勢7千の行長軍は平壌撤退を余儀なくされる。そのまま勢いに乗って漢城を目指した連合軍を小早川隆景らが迎撃して撤退に追い込みはしたものの、ここで戦線は膠着する。講和の機が熟したと見た行長は明との交渉を開始する。そして一時的な停戦が合意され、明の勅使の日本への派遣が決定される。3年に渡って行長は日本との間を行き来して、秀吉が明の勅使を受け入れる条件をまとめた。それは朝鮮の皇子を来日させて秀吉の臣にすること、日本と明の間で勘合貿易を行うこと、そして朝鮮八道の内の四道を日本領とすることだった。しかしこの領土の割譲がもっとも難問であった。明は朝鮮からの日本軍の撤退を求めていた。

 ここでどうやって講和を実現できるかで行長の決断である。1つは時間をかけて講和条件を詰めるというもの。しかし秀吉は領土の割譲を絶対に譲らないのでまとまるかは難しい。また交渉に時間をかけていたら清正など不満を持つ者が暴走すする危険もあった。そしてもう1つはとりあえず領土問題を棚上げにして明勅使と秀吉との対面を優先するというものである。

 ここでどちらを選ぶべきかは意見が分かれていたが、とにかく行長が全権大使ではなく、あくまで秀吉の意向に従わざるを得ず、しかも秀吉が既に現実を見ずに朝鮮支配の野望に浮かれている状況では実際には交渉成立のために打てる手はほとんどなかったろう。明との交渉の前に、実は秀吉との交渉の方が重要だったという指摘もあったが、まさにその通りである。なお磯田氏は「秀吉は朝鮮の大きさを理解しておらず(九州よりちょっと大きい程度という認識)、かなり甘く見ていた」という指摘をしていたが、それがかなり核心のような気がする。九州や東北を易々と平定した秀吉としては、たかが朝鮮ごときなぜ制圧できないのかという認識だったのだろう。

 

秀吉と勅使の対面は実現するが講和は頓挫する。

 結局行長は2つ目の選択肢を選ぶ。秀吉と対面した明勅使は秀吉に対し、秀吉を明国王に認めるという言葉を伝える。これは冊封であり、これで中国との朝貢貿易が可能となる。莫大な利益を上げることが出来るこの提案に秀吉は上機嫌だったという。行長は事前に明の勅使に領土問題を口にしないように釘を刺していたという。しかし面会を終えて宿舎に戻った勅使に、勅使歓待のために現れた高僧が秀吉の「おのれに対して要求するものは何でも正直にいうがよかろう」という言葉を伝えたため、勅使は思わず朝鮮からの日本軍の撤退を口にしてしまう。これを伝え聞いた秀吉は激怒する。そして講和交渉は頓挫してしまう。

 そして翌年、再び朝鮮への出兵が命じられる。これが慶長の役である。今回の目的は朝鮮南部の支配であった。ここで秀吉は老若男女僧俗に限らずあまねくなで斬りにせよという厳命を下す。これに対して明や朝鮮は準備を整えて日本軍を迎え撃った。行長は交渉を試みたが、祖国防衛で必死の朝鮮には交渉の余地はなかった。この戦いは凄惨を極め、多くの犠牲が出た。そして泥沼化した慶長の役が終結したのは秀吉の死によってである。

 結局はこの戦いで日本は得るものがなく、戦いに参加した諸将には不満が溜まることになった。その不満が秀吉のそばにいた石田三成や小西行長に向かうことになり、それを巧みに利用したのが徳川家康であった。結局はこの戦いがなければ家康の天下はなかったのではないかとしている。

 

 結局は秀吉政権の運命を決してしまったのはこの無謀な戦いだったのだが、確かにこの戦いがなかったら、ああも簡単に豊臣政権がこけることななかったかもしれない。明らかにこの戦いぐらいから秀吉は晩年の判断力の衰えを示しており、結果として多くの大名に豊臣政権に対する遠心力を生じさせることになってしまった。当時の日本は長年の戦い慣れで確かに軍事的にはかなり強力になっていたので、秀吉も「これなら明国ぐらい勝てる」と甘く見たんだろう。そもそも明国だけでなく、スペインなどとも戦うつもりだったという話もあるぐらいである。磯田氏が「戦中毒」と評していたが、そういうところはあったと思われる。

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 また秀吉としては、権力を維持するためには常に領土を拡大してそれを家臣に配分することで歓心をつなぐという方法論しか持ち合わせていなかったのではないかと思われる。実際に秀吉自身がそのように自分を取り立ててくれる信長に魅力を感じてついていった人間だけに、畿内を押さえて内向きになり始めた信長から家臣の心が急速に離れていった最後も直視していたはずである。秀吉としては信長の轍を踏まないためには領土の拡大を続けるしかなかったのかもしれない。

 つまりは新たな泰平の世のグランドデザインを描けず、結局は戦国を続けるしかなかったというのが秀吉の限界でもある。秀吉がここで新たな社会のグランドデザインを描いてそれを実践していたら、さすがに家康とて出番はなかったろう(定まってきた世の中を自分個人の欲望のために乱すのかと回りから非難される)。

 

忙しい方のための今回の要点

・小西行長は元々は宇喜多氏の配下であったが、宇喜多氏が信長と結んだことで中国攻めをしていた秀吉の麾下に加わることになり、そこで海軍の将として頭角を示す。
・秀吉に認められた行長は南肥後を収める大名に抜擢される。また行長の交渉力を見込んだ秀吉は、大陸侵攻を目指しての朝鮮との交渉を行長に担当させる。
・秀吉は朝鮮を経由して明国への侵攻を考えていたが、長年明を宗主国としてきた朝鮮としては飲める話ではなく、交渉は決裂する。
・ここで行長は釜山に上陸し、文禄の役が始まる。釜山を半日で攻略した行長は、後に上陸した加藤清正と競い合うようにして朝鮮の首都である漢城(今のソウル)へ進軍する。
・1ヶ月ほどで漢城に入城した行長は、ここで朝鮮に降伏を勧告しようとするが、あくまで秀吉の命に従って武力侵攻を目指す加藤清正に妨害される。
・行長は明と直接交渉するために平壌まで侵攻するが、既に明は朝鮮救援のための大軍を編成していた。そして明・朝鮮連合軍5万の襲撃により、行長は平壌撤退を余儀なくされる。
・また日本軍は各地でのゲリラ戦と、李舜臣による海上補給路の遮断で苦戦に陥っており、戦線は膠着する。ここで行長は明との講和交渉を開始、とりあえずの停戦が合意される。
・しかし講和交渉は秀吉が朝鮮の南部の割譲を求めたことで朝鮮からの撤退を求める明との間で難航、行長はとりあえず領土問題は棚上げにして、明国の勅使と秀吉を対面させることにする。
・秀吉は明からの貿易を認める提案に上機嫌となるが、後に明国の撤退要求を聞いて激怒、交渉は決裂して再度の出兵を命じる。今度の出撃は朝鮮の征服が目的で、老若男女僧俗の別なくなで斬りにせよという苛烈なものであった。
・しかし日本軍は準備を整えて抵抗する明・朝鮮軍の前に苦戦。結局は朝鮮各地と日本軍に甚大な犠牲を強いたまま戦いは膠着、ようやく撤退となったのは秀吉が亡くなった後であった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・ゲストが、日本史上での日本の三大手痛い対外戦争敗北として「白村江の戦い、朝鮮出兵、第二次大戦の対英米開戦」を挙げていたが、いずれも目的不明のまま戦争に突入し、終結のイメージを描けないまま泥沼になったというようなことを言っていたが、確かにまさにその通り。

次回の英雄たちの選択

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