教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

8/17 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「日米逆転!コンビニを作った素人たち」

日本初のコンビニエンスストアの物語

 今回は日本初のコンビニエンスストアであるセブンイレブンのオープンの物語。社内で不遇であった社員が一般公募の素人集団で日本の流通革命に挑むという熱い物語である。なおこの回、私は間違いなく見ており、強い感銘を受けたのでその内容もかなり詳細に覚えていたのであるが、なぜかバックナンバーには記載がなかったので、今回も書き下ろしである。

 

新たな小売りの形態を模索する中、アメリカで出会った便利屋

 昭和46年、大量消費の時代を迎えた日本ではスーパーマーケットが隆盛し、老舗の百貨店から客を奪っていた。活気づいているスーパーマーケット業界だが、その中で業界17位に甘んじていたのがイトーヨーカドーであった。大手に比べて資金力が無かったために苦戦していた。会社初の短大卒の清水秀雄は店舗開発を任せられていたが、資金がないことから買収できた土地は墓地の裏とか畑のど真ん中で、清水は社内でマネジメント能力を問われた。若くして登用された清水には古手の幹部からの風当たりも強く、やがて3坪の部屋で社員はたった1人という部署に異動させられる(典型的なリストラ部屋である)

 この時に一人の上司が清水に「アメリカに行こう」と声をかける。38才の鈴木敏文。途中入社の鈴木は会社の古い体質に疑問を感じて新しいビジネスを探していた。

 鈴木と清水は安モーテルを転々としたながら、アメリカの有名スーパーを見学して回るが、いずれも大規模な資金を投入した巨大店舗で全く参考にならなかった。彼等は評判の店と聞くとスラム街の中までも見学に訪れた(実に命がけである)。そうした時に一件の小さな商店に出会う。そこは便利屋(コンビニエンスストア)と呼ばれていた。店内は客で賑わい、営業時間は長いのが特徴だった。驚いたのは一切の値引き販売をしていなかったこと。さらに店舗が全米に4200あると聞いた鈴木は「これだ」と思いつく。

 それがセブンイレブンである。本社を訪れた鈴木は社員2万人という巨大な会社に圧倒される。最初は小さな小売店がここまで成長した秘密は100冊に及ぶマニュアルにあると担当者に言われ、鈴木は見切り発車で契約を申し出る。そもそも日本に進出する気のなかった役員達は完全に嘗めてかかっており「8年で1200店にしなければペナルティを取る」という法外な条件に巨額な商標使用料をふっかける。しかしこの厳しい契約を締結する。

 

追い込まれて後のない状態で勝負に挑むが

 帰国した二人を待っていたのは役員達の非難の嵐だった。社長は「やるなら君たちが勝手にやれ。本社が出せるのは資本金の半額だけだ。」と言い放つ。清水はイトーヨーカドーを退社して新しい会社に移り、鈴木と清水の二人は貯金を吐き出して資金を作る。退路を完全に断たれた人生を賭けた勝負だった。

 昭和48年秋、プロジェクトメンバー集めが始まる。しかし本社の社員は皆出向を拒絶する。困った挙げ句に、労働組合の闘士で会社から睨まれていた38才の岩國修一を誘う。さらに中途採用で商社からやって来た鎌田誠晧を「有望なビジネスだ」と口説く(ほとんど詐欺である)。事務所は会社の大部屋の隅をやっと貸してもらい、他のメンバーは新聞広告で募る。元自衛官やパン屋の営業マンなど総勢15人が集まるがずぶの素人集団だった。

 頼りはアメリカからのマニュアルだった。そこにはどのようなところに出店するか、どんな商品を揃えるかなどのノウハウが記載されていると考えられていた。英語に堪能な鎌田が翻訳作業を買って出るが、翻訳を終えた鎌田は青ざめる。そこには釣り銭の渡し方などアルバイトの教育に関する記載ばかりが延々と続き、出店の条件は通りに面して人通りがあり競合店のないところを選べなどの当たり前の事が簡単に記されていただけだった。

 

手探りで一号店オープンにこぎ着けるが大苦戦となる

 命運を託していたマニュアルは全く役に立たないことが分かった。彼等は独力で一号店を開くしかないと走り回る。その矢先にオイルショックが日本を直撃、出店費用は倍になってしまう。これで一号店の目処は全く立たなくなる。そんな時に江東区の酒屋から一通の手紙が届く。「新聞でコンビニの記事を見た。私の店を改造してコンビニを始められませんか。」というものだった。

 鈴木は喜んで現地に飛ぶが、現地は工場と空き地しかない埋め立て地だった。手紙の主は山本憲司は23才。4年前に父を失って大学を中退して家業を継いでいた。年老いた母親と高校生の妹、中学生の弟に身重の妻を抱えていた。自分達同様に瀬戸際に立たされている山本を是非とも助けたいと鈴木は思う。

 そして店舗の改装が始まった。費用は2200万円。山本は全額を土地を担保に銀行から借りた。後戻りはもう出来なかった。どんな商品を店に置くかを清水は考え、酒屋時代の6倍の3000種類の商品を仕入れる。メンバーは新装開店のちらしを団地に配って回る。オープンを前にアメリカから指導員が現れるが、「こんな小さな店では商売にならない」と言い放つと夜の町に消える。開店の3時間前にようやくすべての商品が陳列される。

 昭和49年5月15日、日本のコンビニエンスストア第1号店のオープンの日となった。メンバーが荷物置き場から店内を見守る中、最初に訪れたのは工場への出勤途中の男性で、彼は800円のサングラスを購入した。午後になると付近の団地から客が現れる。その日の売り上げは39万4千円。酒屋時代の倍だった。しかし1ヶ月後に厳しい現実に直面する。山本商店の売り上げはかつての2倍になったが、長時間営業の電気代にアルバイト代、さらに本部に支払うロイヤリティを差し引くと以前と利益は変わらなかった。このままでは借金の返済で行き詰まるのは確実だった。メンバーは立ち尽くす。

 

起死回生の策に動き出すメンバー達

 開店から半年、ギリギリの経営が続く山本商店はアルバイトを雇う余裕もなく、山本は1日16時間店に出て、長男を産んだばかりの妻も産後10日目からレジに立った。責任を感じたメンバー達が動き始める。岩國修一はせめて自分の出来ることと釣り銭の両替や床の掃除を毎日行っていたが、ある日商品の中に何ヶ月も売れないものがあるのに対し、ジュースなどは品切れになっていることに気づく。なぜ品切れの商品を仕入れないのかを山本に聞くと、商品がうずたかく積まれた2階に岩國を案内する。問屋は商品をまとめてしか運んでくれないので品切れを補充しようとすると商品が山のようになってしまって置き場所がないと山本に言われる。

 岩國は飛んで帰るとメンバーにこの現状を報告する。鈴木は問屋に商品を小分けにして配送してもらう手はないのかという。しかしこれは無謀な話だった。問屋にしたら採算が合わないと拒絶されるのは見えていた。岩國は組合で鍛えた強気の交渉で問屋を回ることにする。また鈴木はすべての商品で売れ筋だけ絞れば在庫は減ると考える。しかしコンピュータもなかった時代、3000種類の商品を管理するのは至難の業だった。しかし得意の英語が活かせずに身体を持て余していた鎌田がその仕事を買って出る。そして鎌田は深夜まで会社に残ると毎日の売れ行きを手作業で集計する。そしてまもなく、洗剤は大きなサイズはほとんど売れずに小さなサイズのみが売れる、袋詰めよりもカップラーメンの方が回転率が高い、週刊誌は発売から4日経つとほとんど売れなくなるなどの客のニーズが見えてくる。

 

日本の流通を革新し、そして起こった日米逆転劇

 そして鈴木は問屋を口説くための大胆な手を思いつく。山本の店がある江東区周辺に集中出店をするというアイディアである。そうすれば小分け配送でもまとまった数になる。共倒れの恐れもあるが、鈴木は早朝深夜の新しい客を開拓できると考えた。メンバーは町に散ると商店にコンビニへの参加を訴える。先頭に立ったのはパン屋の営業だった宮川輝男、彼は小売店の懐に飛びこんでいく。これが功を奏して、山本の店の周りの11店が参加を約束する。お膳立てが整ったところで岩國が問屋に交渉に乗り込む。そこで彼は「コンビニは新しい客を開拓する新しいビジネスになります」と問屋を口説く。「新しいビジネス」という言葉に問屋も乗り出す。こうして山本商店への小分け配送が始まる。在庫はみるみる減り、利益は急カーブで上昇する。

 山本商店の成功で各地にコンビニが増え、流通革命が始まる。なおその後、本家のアメリカのセブンイレブンが不動産投資の失敗や放漫経営で危機に瀕し、鈴木は独自に作成したマニュアルを携えて、鎌田をアメリカに送り込む。セブンイレブンはわずか3年で黒字経営に転じてアメリカ戦後最大の再建劇と言われることになる。まさに日米逆転劇が生まれた瞬間だった。

 

 ちなみにアメリカのセブンイレブンは現在は日本のセブン&アイに買収されて完全に子会社になっています。さらに鈴木氏は後にイトーヨーカドーの会長になり、清水氏は副会長になるのだから、日米だけでなくて日本の中でも逆転劇が起こっています。

 プロジェクトチームが徹底したのは現場主義で、後にカリスマ経営者と言われるようになる鈴木氏の原点はまさにこれだという。セブンのプロジェクトチームは清水氏以外は素人集団だったのだが、現場を回る内に卓越したプロ集団へと進化したようである。小売りにおいては特にこの現場感覚というのが重要で、かつて隆盛したダイエーもカリスマ経営者だった中内功が現場から遊離して庶民感覚を失ったところから転落が始まった。なお自慢になってしまうが、私はダイエーの破綻をその数年前から予見していた一人でもある。ちなみにその私の目から見れば、現在イオンが「ダイエーがかつて歩んだ道」を歩みかけているように見えることがやや気がかりではある。

 そてこうやって日本の流通現場に革命を起こしたセブンイレブンであるが、その後のコンビニ過当競争の結果、現在様々な問題が発生していることは皮肉なことである。かつて山本商店を全力でバックアップして軌道に乗せた本部が、今や搾取の象徴としてフランチャイズオーナーからの怨嗟の声に晒されている。山本が軌道に乗るまでにまさに悲惨な状態であったが、今はあちこちでまさにその状況のコンビニ残酷物語が囁かれている。確かに私の周辺でもコンビニの新規開店・廃業が相次いでおり、この世界の限界がもう既に見えている。

 この状況の打破には鈴木の次の世代の優秀な経営者が登場する必要があるのだが、果たしてそういう人材が日本にいるのだろうか。どうも単なる守銭奴集団と堕してしまった今日の経団連を見ていると、あまり明るい展望を持てないのであるが。

 

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