忍者のリアルな姿とは
この番組でも以前から「リアルな忍者の姿を伝える」として天正伊賀の乱とかを扱ったことはあるのだが、今回はそのような一環として神君伊賀越えへの忍者の関与を紹介するってことらしい。
この番組では以前に天正伊賀の乱を扱っている
まずは磯田氏が伊賀の地を訪れて調査している。伊賀甲賀の地は昔から修験者が多く、彼らが忍者の元だとされている。彼らは地形を活かした神出鬼没のゲリラ戦に長けた集団であった。そして戦国時代になると彼らの活躍の場が広がる。伊賀の地には今でも土塁や堀に囲まれた要塞のような住宅があるという。これらはかつての土豪の屋敷の跡だという。彼らは集団で独立自治を行っていた。伊賀と甲賀は基本的に共存していたのだが、磯田氏の発見した資料によるとやはり小競り合いはあったらしい。
現地を調べると森の中に高さ5メートルほどの土塁や三重堀切の跡があり、相手方の忍びを警戒していたのが覗えるという。なお伊賀衆はこの堅固な守りを突破している。磯田氏が調査した現地の古文書によると、今川家に雇われていて山本勘助から軍学を伝授されたなどの記述も見られるとか。
本能寺の変で混乱する甲賀の元を訪れた家康
そして天正伊賀の乱では伊賀の土豪達はゲリラ戦術で8000の織田軍を撃退する。しかし本気になった信長が4万の軍勢で包囲、伊賀は敗北して女子供まで殺害されて犠牲者は3万人に及ぶ。これで伊賀の自治は崩壊する。一方の甲賀は信長に臣従の道を選んで生き残りを図った。しかし本能寺の変で翻弄されることになる。この時に登場するのが家康である。
本能寺の変の際、家康はわずかな供回りと堺に滞在していた。一刻も早く岡崎へと逃走する必要があったが、その途中で伊賀を超える必要があった。伊賀には未だに天正伊賀の乱の恨みが渦巻いており、残党が信長の同盟者であった家康を攻撃する可能性があった。これを回避するために家康は同行していた織田家臣のツテで、小川の土豪の多羅尾光俊を頼る。多羅尾は数百人の動員力を持ち、甲賀で一二を争う兵力を有し、信長に仕えて天正伊賀の乱でも功績を挙げていた。ここで光俊の選択である。家康を助けるか家康を捕らえて光秀に突き出すか。
これに対してゲストは全員一致で家康を助ける。これは私も全く同感。家康にここで恩を売っておくことは損にはならないということ。最悪光秀が天下を取ったとしても、「えっ、家康を助けた? いやー、覚えはありませんな」とすっとぼけて「そんなにお疑いなら我らも一戦構えて身の潔白を訴えてもよろしいですが」と揺さぶりをかける手があるだろう。
まんまと家康に恩を売った甲賀だが、その後も運命の変転が
で、歴史が伝えるとおりに多羅尾は家康を助けている。家康に赤飯を振る舞う(空腹の家康は飛びついたそうな)などもてなした後、神君伊賀越えをサポートすることになる。逃亡ルートであるが、危険な伊賀を避けて甲賀の山道を抜けたのではとの推測を番組は掲げている。実際に幅広い古道(甲賀ハイウェイなどと呼んでいる)が存在し、そのルートを使用したのではとしている。この道の上下には甲賀衆が見張をするための道路まであるのだという。このルートを通って高速かつ安全に家康は逃走をしたのだという。なおこの逃走には多羅尾以外の複数の土豪が協力しており、途中の和田氏が人質を差し出したことを示す家康の書状も残っているとか。こうして家康は岡崎への逃走に成功している。
ちなみに有力者の子弟を人質に取って次の有力者へのつなぎをつけさせるのは、磯田氏によると「正しい落ち武者のあり方」だそうな。確かに後にこの「正しい落ち武者のあり方」をとれなかった光秀は、地元民の落ち武者狩りであえなく命を落としている。
甲賀衆は小牧長久手の戦いでは家康についた。しかし家康が秀吉に臣従したことで甲賀に受難が発生する。秀吉は理由を付けて甲賀衆の所領を没収する甲賀ゆれを行う。不遇の日々を堪え忍んだ甲賀衆は関ヶ原の戦いの裏で活躍する。伏見城に籠城した鳥井元忠を支援するために甲賀衆100人が籠城に参加したのだという。勝ち目のない戦いだったが頑強に戦って西軍を足止めした。甲賀衆は玉砕したが、家康はその功績を忘れずその子弟は幕府の鉄砲方として召し抱えられたという。
以上、戦国時代のリアル忍者の活躍について。地方のゲリラ戦士のような連中だったが、最終的には公務員になったってことのようです。なお前半は伊賀の話でしたが、その伊賀は天正伊賀の乱で徹底して破壊されたので、後半は甲賀の話になってました。こりゃ伊賀衆からしたら、甲賀衆は許せざるべき裏切り者だったんじゃないかって気がしますね。ただ最終的に幕府に抱えられた連中には「伊賀者」って言葉があったぐらいだから、伊賀の連中も含まれてたんだろうか? まあ信長について生き延びた甲賀の連中も、結局は秀吉に追放されて苦渋を舐めているから、その間に先に苦渋を舐めさせられていた伊賀の連中と合流した可能性もなきにしもあらずかも。
忙しい方のための今回の要点
・伊賀甲賀の地では昔から土豪達が自治を行っており、地形を利用したゲリラ戦が得意で、一度は織田軍を退けている。
・しかし本気になった信長が4万大軍で包囲して伊賀を殲滅する(天正伊賀の乱)。この時に甲賀衆は信長についた。
・しかしその甲賀衆は本能寺の変で翻弄されることになる。その時に岡崎に向かって落ち延びる途中の家康が援護を求めてくる。
・甲賀の有力者である多羅尾光俊は家康を扶ける。この時に山中を走る甲賀ハイウェイと呼ばれる山道を使用したのではないかとされている。
・甲賀は小牧長久手の戦いで家康につくが、家康が秀吉に臣従したことで秀吉によって甲賀から追放されてしまう(甲賀ゆれ)。
・苦汁を舐めた甲賀の活躍の場は関ヶ原で訪れる。この時、伏見城で籠城する鳥井元忠の元に100人の甲賀衆が援軍として駆けつけ、元忠と共に玉砕する。家康はこの功績を忘れず、彼らの子弟を後に幕府の鉄砲方として召し抱える。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・昔から紀伊半島の辺りは雑賀衆とかとにかく鉄砲の扱いに長けたゲリラ戦士がゾロゾロいるんですよね。地形は複雑で大軍を展開しにくいし、信長とかの権力者にとってはかなりタチが悪かっただろうと思います。
・結局正規軍にとっては、後方で補給部隊なんかを襲撃するゲリラが一番対処に困るんですよね。まあ兵力とかに劣る地元の連中が大軍を相手にする時には、これが一番頑強な戦い方です。
・元寇の時といい、意外と日本はこのゲリラ戦が一番長けていたりするんですよね。
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