教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/11 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「どこから来た?縄文人の真実」

縄文時代の生活

 縄文人とはいかなる人々であったか。近年になって急激にイメージが変わってきた縄文人の真実について紹介。

 縄文時代とは1万5000年前から2800年前まで続いた長い時代である。縄文人の顔を遺骨から復元したところ、顔は四角くていかつい感じで、鼻は高くてかみ合わせは上下がピタリと合っている。身長が男で158センチ、女が153センチと小柄だったらしい。

 縄文時代は旧石器時代と違って既に定住して布なども織っていた。その縄文人の集落が有名な三内丸山である。縄文時代は竪穴式住居で暮らしていたが、中で火を焚くことによって虫除けなどにもなるので、10~30年と意外と耐久性があったらしい。さらには三内丸山では大型建物もあったことが分かっている。

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三内丸山遺跡

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竪穴式住居

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中央で火を焚き、上の棚で燻製などを作っていた

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三内丸山市民文化センターこと大型建造物

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内部

 

 また障害を持っていたにも関わらず50才ぐらいまで生きた骨やら、小児麻痺で明らかに歩くことが出来ないにも関わらず20才ぐらいまで生きていた骨が見つかっており、既に集落による介護などがあったのではとされている。

 

縄文人のルーツとその豊かな生活

 縄文時代人がどこから来たかであるが、日本人は4~3万年前にサハリンからの北方ルート、朝鮮半島経由の東方ルート、南西諸島からの南方ルートなどで渡ってきたと考えられていたが、縄文人はその身体的特徴から南方ルートから来たのではないとされていた。しかし福島県三貫地貝塚から見つかった3000年前の人骨のDNA解析から、東南アジアの人々からは大きくかけ離れたていることが判明したという。このために南方ルートではなく、3ルートからやって来た人々が混血して独自の進化をしたのではないかされている。

 縄文時代と言えば独創的な縄文土器であるが、文様が施されるようになったのは本格的定住が始まった縄文前期だという。三内丸山はその時期になるという。初期の土器は日常使用されていたものだと考えられるが、中期になると実用上は不便と思われる装飾過多な土器が登場する。またこれらの土器には地域性があり、たとえば火焔型土器は新潟県を中心とする一部の地域にしか見られていないという。そして後期になってくると実用と祭祀用に明らかに分かれてくるという。

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三内丸山で発掘された土器

 また縄文人の暮らしは、まず食生活は木の実などを中心に獣や魚も食べたという。特に動物の狩りは冬が中心だったと推測されるという。陸上動物は60種、魚類は70種、貝類は300種と実に多彩な食生活を送っていたという。また土器で煮炊きできるようになったことで、食生活が豊かになり、衛生状態も向上したという。また縄文ハンバーグや縄文クッキーといったものも見つかっている。また燻製などの保存食も存在した。また単に狩猟採取だけでなく、栗や豆などを栽培していた(しかも品種改良もしていた)という。また酒造りや塩作りもされていたのではという。

 

想像以上に高度な生活をしていた

 また大型掘立柱建物が見つかっているが、これは夏至や冬至の太陽の方向と対応していることから、縄文人には二至二分(夏至・当時・春分・秋分)の1年の概念が存在したと考えられるとのこと。

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大型掘立柱建築

 さらに新潟糸魚川で取れた翡翠が三内丸山で見つかったことから、広域で交易が行われていたことが分かってきている。このような交易は情報の交流もあるので、言葉も使用されていたと推測されている。

 また特徴的な土偶であるが、女性像が大半で妊婦を表現していると思われるものが多い。これらも後期になっていくと遮光器土偶などのかなり独創的なものが現れており、これらは精霊的なものを表現したのではないかと推測している。また土偶の多くは意図的に壊されており、これは土偶の一部を壊すことで身体の悪い部分の回復を祈る呪術的な意味があったのではと推測している。

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三内丸山で発掘された土偶

 埋葬については子供だけは別に土器に入れたりして埋葬されており、これは母体に見立てて、再び生まれることを祈っているのではなどとしている。

 

 縄文時代については「英雄たちの選択」などのNHKの番組でも良く取り上げられているので、内容的にはそう特別なものはなかった印象だが、細かいところでこの番組の独自の解釈なども混ざっており、研究者によって様々な説があることを感じさせる。この番組の場合はほとんどが三内丸山で取材しているようで、そこの学芸員の解釈にしたがっていたようである。

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 ただ共通しているのは、縄文時代の食生活は現代人が思っているよりも豊かで、比較的安定した生活を送っていたということや、かなり広範囲での交易のネットワークを持っていたらしいということ。この辺りは最早最近では定説となり、かつての縄文人像を大きく変えることになっている。

 

忙しい方のための今回の要点

・縄文時代は定住が始まった時代であるが、狩猟採取が基本だが現代人が想像するよりも豊かな時代であったらしいことが分かってきている。
・三内丸山のような大型集落で竪穴式住居で生活していたが、既に障害者などに対する共助の精神があったらしいことも分かっている。
・食料は木の実を中心として野生の獣や魚類などを幅広く食べており、縄文ハンバーグや縄文クッキーなどの料理もあったことが分かっている。
・土器は独特の模様のあるものが登場するが、中期以降は装飾が過剰なものが増えてきて、その装飾には地域性があることが分かっているという。また後期以降は祭祀用と実用が明確に分かれている。
・さらに縄文時代には広い交易ネットワークが存在していたことも判明した。
・土偶は妊婦をかたどっているとみられるが、後期になると遮光器土偶のような独創的なものが増えてくる。これらは意図的に一部が壊されており、身体の悪い部分を破壊することで回復を祈るというような呪術的意味があったのではと推測されている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・土偶が身代わり地蔵さんだったという話はなかなか興味深い。確かにあり得る話ではある。まあ私は単に縄文岡本太郎がほとばしる創作意欲のままに情熱をぶつけたなんて可能性もあると考えていたりしますが(笑)。
・造形におけるデフォルメというのは一つのお約束のようなものであり、それが段々と度が過ぎていくと人間とはかけ離れた異形になっていきます。たとえば今時の萌え絵や萌えフィギュアにしたところで、そういうお約束を知らない目から見たら、明らかに実在の人間にはあり得ないような化け物のような造形になってますからね。もしかしたらその内に、縄文萌えフィギュアが大量に発掘される縄文コミケ遺跡が出土するかも。まさに広域の交易ネットワークだ。

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